参院選が始まった

昨年1月に「傾国」というタイトルで日本政府のコロナ対応の不作為の記事を書き、その6月には「なぜ君は総理大事になれないのか」というタイトルで、五輪に向かう世の中の流れの中で、同名の映画の感想と絡めて、ひとりの政治家、小川淳也氏のことを書いた。このブログに政治ネタを書くのは、これで3回目になる。

2020年に始まったCOVID-19の大流行、いわゆるコロナ禍以降、時の政権の判断がいかに自分たちの生活に影響を与えるかを否応なく思い知らされた。科学的根拠が曖昧、東京五輪実施のためなら恣意的な運用も行う緊急事態宣言や蔓延防止措置の発動と終了、アベノマスクやGoToのようなタイミングと対象を誤ったコロナ対策、強行された東京五輪、今年に入っては、ロシアのウクライナ侵攻に端を発する資源高、食糧高の状況にもかかわらず、円安状態を黙認するなど、膨大な時間と労力と税金が、目的と効果もはっきりわからぬまま消費された。

ではこの間、この国の主権者である国民(有権者)は、これに対してどう意思表示をしたのか。昨年10月の衆議院議員選挙では与党である自民党公明党が過半を獲得、この7月に参議院議員選挙でも同じような結果になりそうである。

何が起きているのか。自治体問題研究所というサイトに、昨年10月の衆院選の結果分析がまとめられていた。

投票率、得票分析、維新の躍進、の3点に絞って検討が展開されているが、ここでは最初の2点について注目してみたい。(3つ目も大変重要な論点ではあるのだが、それはまた別の機会に)

投票率は55.92%で、与党自民党公明党が獲得した得票率は比例代表で47.04%、小選挙区で49.60%で実は過半に届いていない。仮に50%だったとしても、

有権者数 約 1億532万人 x 投票率 55.92% x 得票率 50% = 約 2,945万人

のひとが支持しているに過ぎない。日本の2021年時点の総人口は1億2550万人、そのうちの1/4以下のひとたちの「いまのままでいいよね」が、残り3/4のひとの運命をも決めてしまっている。この構造は、民主党が政権を取った2009年の得票率(比例代表:42.41%、小選挙区:47.43%)でも同じことが言え、代議員制度と選挙区制度の持つ特徴であり、限界でもある。つまり政党からすれば、要するにその範囲のひとを相手に“いい思い”をさせていれば、あとはほったらかしでも政権政党として存続することができることを意味している。

そう、前からこうだったし、ここまでやってこれたよね。そこは間違っていない。でも国の置かれている状況=人口構造は刻々と変化を遂げていて、既に坂を下り始めている。これは前回の記事で小川淳也氏が触れていた人口構成比を考えた政策議論をしてみたいとあった通り、この国が抱える問題の本質だからだ。

この状況で、政権与党がやっている個々の政策はどうだろうか。少なくとも"いい思い"をしている1/4のひとたちが成長を遂げられるようになっているだろうか。しばしば新自由主義のような綺麗な看板で語られることはあるけども、もし本当に新自由主義なら、少なくともこの1/4以下のひとたちだけでも成長する方向に向かっているはずである。でも、自分にはそうは思えない。要するにやっていることは、1/4以下のひとたちの成長で国を成長させることではなく、残り3/4のひとの懐に手を突っ込んでパイを分捕り、1/4のひとに還元するようなムラを作っているに過ぎないのではないか。

結局のところ、ひとは歳を取るとやがて死ぬ。この国で生きていくひとたちは、歳月の経過とともに入れ替わっていく。国の衰退局面にあって、どこにリソースを裂くべきかは自明なように思われる。この国のマイノリティになってしまった若い人たちがもっと丁寧に扱われてしかるべきで、究極的にはこの社会のマイノリティに対する受容が国の行く末を決めるように思われる。

「未来から過去を振り返ったとき、今回の参院選がターニングポイントだった(Point of no return - 回帰不能点)と言われるだろう」というような向きもある今回の選挙。僕は「自由意志による投票がまともに行われた最後の選挙だった」ぐらいのもう一段悲観的な見方もしているのだけど、情報を扱うテクノロジーによる世界の変容によって、ムラに閉じこもることももはや不可能な世界になっているとも感じる。どんな未来になろうとも、簡単にあきらめないし、小さなつながりを保ち続けたい。そして、今回の投票だけでなく、仕事もプライベートも、次の世代のひとたちが幸せになれるような行動を取れればと思う。

いつか笑ってまた会おうよ
永遠なんてないとしたら
この最悪な時代もきっと続かないでしょう

君たちはありあまる奇跡を
駆け抜けて今をゆく

(羊文学「光るとき」より)