なぜ君は総理大臣になれないのか

今年の初めに「傾国」というタイトルで思いを書きつけてから半年。その間に、コロナの状況は目まぐるしく変化した。1ヶ月で緊急事態宣言の解除は無理だろうと書いたことは、その通りになった。1ヶ月延長して解除してみたものの、特に何の対策も講じていなかったので、再び感染が広がって再度の緊急事態宣言。東京五輪の日程を踏まえて(それ以外の根拠はない)、明日から(沖縄を除いて)解除されるのだけど、たぶんまた同じことが起きるはず。ワクチン接種が進んでいるイギリスですら、デルタ株の蔓延で再び新規患者が1日1万人を超える状況になっている。いわんや日本をや。わかってないはずがない。それがわかっていて判断が下されている。そういう国に、僕らは生きている。

でも今日話したいことは、そこではない。小川淳也という政治家、そして個人と社会の幸福の追求の話だ。

小川淳也という政治家

小川淳也という政治家を知ったのは、Pencroft氏の以下のブログ記事が始まり。

「なぜ君は総理大臣になれないのか」。ラノベのタイトル風でもあり、映画のタイトルとしてはなかなかインパクトがある。いまをときめく平井卓也デジタル改革担当大臣の地元である香川1区で、ジバン、カンバン、カバンなしの小川淳也衆議院議員の17年の闘争を記録したドキュメンタリー映画だ。

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構図としては理解しやすい。自分も地方の出身なので、地方の政治がどういう力学で動いているかは想像に難くない。国会議員であれ地方議員であれ、その地域の個人や企業と何らかの形でつながりがあり、言ってしまえばそれがすべて。思想信条や公約なんてまーぶっちゃけ関係ないのである。誰しもどこの誰かもわからんやつに投票するよりは、ちょっとでも知ってるひとに投票しようと思う。平井は祖父、父も大臣経験者という三代にわたる政治一家であり、典型的な世襲政治家だ。政治だけでなく、家族・親族が地元メディア(四国新聞RNC西日本放送)を経営してるとなれば、言ってしまえばお殿様みたいなものである。知らないやつはいない。一方の小川はというと、美容院のせがれで政治とはかすりもしない家の生まれ。東大法学部から自治省官僚と世間的にはエリートコースと言われる道を歩んではいるものの、無名。その上、政治未経験の若造に平井は圧倒的な壁だ。それでも2005年の初当選から、民主党民進党希望の党→無所属→立憲民主党と変遷を経て、当選5回(比例復活を含む)を重ねる衆議院議員を務めるに至る。

公開当時は同じく政治ドキュメンタリーの「はりぼて」が話題になっていて、自分も田端のミニシアターに観に行ったりしたのだけど、こちらはついに映画館で見ることは叶わなかった。先月になってようやくネット配信が始まったので、早速観てみた。

映画の中でも何度も触れられる「小川淳也は政治家に向いていないのではないか。」これが映画を見たひとが最初に抱く感想だと思う。政策を熱っぽく語る姿は志士のようでもあり、多くのひとが思う「政治家像」とかけ離れている。野心、腹黒さ、凄み。彼にはまったくその気がない。政治の最高峰ともいうべき国会議員ともなれば、あごで人を使うような尊大さがなければやっていかれない。そんなふうに思っていたのだけど、彼もまた立派な衆議院議員なのである。

彼のように、志を曲げることなく、自分や家族の身までも賭して何かをなそうと思うひとこそ、本来政治家になるべきではないか。つまり小川淳也は政治家に向いていないのではなく、向いてないと感じた自分たちの方に問題はないのか。

これは「はりぼて」でも同じで、政務活動費を懐に入れている政治家を許す有権者の存在があるからこそ、彼らは政治家でいられる。なぜ小川淳也は総理大臣になれないのか。それは彼の問題なのか。彼を総理大臣にできない自分たちの問題ではないのか。「この政治家のことをもっと知りたい。そして応援したい。」自分が政治家に対してそんな感情を抱いたのは、このときが初めてだった。

そしてつい先日、この映画を補完する形で一冊の本が刊行された。

本当に君は総理大臣になれないのか (講談社現代新書)

ノンフィクション作家の中原一歩の手を借りて、小川淳也の生い立ちや映画では描かれない官僚時代のエピソード、また具体的な彼の政策とそれをどう実現するのかを、インタビュー形式でまとめたものだ。

自分は彼の提唱する政策そのものよりも、彼が政治をどのように変えたいのかという部分に興味を惹かれた。「国民とともに政権公約を作成」では、このように説明されている。

党首が本気になって全国に出向いて、巷で市井の人々と討議しながら政権公約を一から練り上げるっていうのは、日本の歴史ではまだ例がないと思うんです。こうした、本当の意味での国民との徹底討議を経るというプロセス抜きにしてできあがった政権公約というのは、血肉になっていない気がするんです。

また「社会保障改革国民会議の公募・設置」の件では、このようなことが書かれている。

僕は全国民からの公募による、文字通りの国民会議を招集したいです。抽選でもいい。
そのときだいたい100人ずつぐらいの国民会議のグループを3つ作りたいんですよ。1つめのグループは1950年代の人口構成比率に合わせた100人。2つめのグループはいま現在の人口構成比率に合わせた100人。3つめは高齢化率がほぼ極限に達すると言われている2050年の人口構成比率に合わせた100人です。
3つのグループを作って、大きな会場にグループごとに集める。そうすることで、1950年代の国家、いまの国家、そして30年後の国家を可視化させる。そこでその3グループに徹底的に議論していただく。

彼の言葉の端々から感じられるのは、国民に対する絶対的な信頼だ。でもちょっと待てよ。そんなに彼が思うほど、自分たちはこの国のことを考えられるのだろうか。その重みに耐えきれないひともいるだろうし、そもそも背負いたくもないと思っているやつも山といるはずだ。社会の幸福よりも個人の幸福を追求したいと思うのが、人間の性なのではないか(たとえそれがリンクしていたとしても)。

もし本気で彼がこのような方法論で政治を進めたいと思っているのであれば、そのようなひとたちを、どう巻き込んでいくつもりなのか、聞いてみたいと思っている。

 誰もが珠晶みたいにはなれないからね。

「君は王になったら、贅沢三昧ができるね。たくさんの下官が君の足元に身体を投げ出して礼拝する」
「ばかみたい。あたし、今までだってそりゃあ贅沢してきたわよ。立派な家だってあるし、利発で可愛いお嬢さんだって大切に大切にされてきたんだから」
「なのに、荒廃が許せないんだね。ーーーなぜ?」
珠晶は呆れ果てた顔をした。
「そんなの、あたしばっかりだいじょうぶなんじゃ、寝覚めが悪いからに決まってるじゃない」
「そう……」
「国が豊かになって、安全で、みんなが絹の着物を着て、美味しいものをお腹いっぱい食べてたら、あたし着替えたりご飯を食べたりするたびに、嫌な思いをせずにすむのよ。心おきなく贅沢のし放題よ」

小野不由美「図南の翼」より)