山田尚子監督の最新作「きみの色」を観た。
本作を手がける山田尚子(監督) x 吉田玲子(脚本) x 牛尾憲輔(音楽)の組み合わせは「聲の形」「リズと青い鳥」「平家物語」に続くもので、僕の中では「今までと違う何か」を見せてくれる傑作を生み出してきたチームという認識だ。当然期待値爆上げ状態で公開初日に観に行った。
観ました。山田尚子の好きなもの全部載せ映画、みたいな? pic.twitter.com/UKM9HnfXu7
— じょばんに (@Giovanni_Ihatov) 2024年8月30日
山田尚子監督らしさが全面に出てはいるものの、映画として面白いかというと... という感じで一週間後に2回目。
チネチッタで「きみの色」2回目。レイトショーとはいえ、10人は居なかったな… pic.twitter.com/46gybTPgph
— じょばんに (@Giovanni_Ihatov) 2024年9月6日
1回目よりはずっと素直に観られたのだけど、このお話に出てくる三人の高校生、トツ子、きみ、ルイがどういう思いでバンドを組み、学園祭のライブに出たのか、もっと知りたい!と思っているうちに映画が終わってしまった。
三人が抱える事情は、そんなに軽いものではない。
トツ子は小さい頃からひとが色で見えてしまうという“障害”を抱えていて、それによって周囲との距離を感じている。彼女が親元を離れて舞台となるミッションスクールに来ることになったのも、その事情が関係しているのかもしれない。
きみは祖母との二人暮らし。祖母の母校でもあるミッションスクールに通い聖歌隊を務めるものの、その期待から逃れるように学校を辞め、それを言い出せないままひとり内緒で古本屋「しろねこ堂」でバイトをしている。
ルイは母親から離島の医院を継ぐことを期待され、それに応えるべく医学部の受験勉強をしてはいるが、本当は好きな音楽にもっと時間を使いたいと思っている。トツ子やきみとの出会いは希望にもなった反面、見て見ぬふりをしていた葛藤を再び湧き上がらせるきっかけにもなったはずだ。
トツ子は色が見えることについてどう向き合っているのか、きみがそれでも学校を辞めたのはどうしてなのか、ルイが離島を離れて進学した納得はどこにあるのか。「心のうちを詩(うた)にしてみるのはどうでしょう」とのシスター日吉子の言葉にしたがい、彼らが作った曲に答えを求めてみたもののうまく見つけられず。古い教会で過ごした合宿の時間や学園祭ライブの瞬間の心地よさや美しさだけが残った、そんな映画だった。
「今回の作品はストレスじゃない部分を大切にしていきたかったんです。」
「聲の形」「リズと青い鳥」「平家物語」という一連の作品で、山田尚子監督は登場人物の心理描写をアニメーションとして詳らかに表現することで、ある意味実写映画では成し得ない領域を切り拓いていたように思う。しかし今回の作品に限っていえば、負の感情表現を削ぎ落として陽の部分だけにスポットを当てているため、アニメーション表現の凄みは少々後退している印象を受ける。また物語と呼べるほどの起伏もないので、カタルシスがない。つまり自分がこの映画に感じている煮え切らなさや、もっと三人のこころのうちを知りたいという思いは、単に人間の負の感情を覗き見たり、カタルシスを感じたいという欲望の裏返しであるのかもしれない。
最近の音楽ものの人気アニメーション作品である「ガールズバンドクライ」や「響け!ユーフォニアム3」では、作中でいわゆるクソデカ感情のぶつかり合いがあり、それがある種のカタルシスも生んでいるが故に評価されている部分はある。特に「響け!ユーフォニアム3」では、原作にはなかった久美子と真由の再オーディション対決がシリーズのピークとして据えられた。物語の重要部分における原作改変ということで、様々な反応があったものの、概ねポジティブに受け止められているように思う。自分としては、作中で登場人物を対決させたり、カップリングの話に落とし込んでいく流れは、「ウケるのはわかるけど、お腹いっぱい」という気持ちであり、ユーフォ3の原作改変も正直いい気分はしなかった。(そういう意味では「ぼっち・ざ・ろっく」は一線を画しているのだけど、2期でどうなるか... )けれど「きみの色」を観た自分の反応を考えると、結局クソデカ感情のぶつかりあいやカタルシスを求めている同じ穴の狢なのでは... という気もして、ちょっとぐんにょりしてしまった。
作品のなかで、三人のことは実は思った以上に語られていない。そして前述の山田尚子監督の言葉から、語られていない、描かれていないものを無意識のうちに負ものとして想像してしまっている気がする。映画としての意味があるような深刻なものとして。でも描かれなかったものに意味を見出そうとしたり、それを深刻であるかのように捉える必要はあるだろうか?
例えばトツ子が色が見えることを“障害”の暗喩だと感じたことも、世界を別な角度で見るためただの素敵な能力と考えることもできる。きみが学校を辞めたことは大きな出来事かもしれないが、彼女が学園祭で後輩に温かく迎えられていることをみると、大きな問題と捉える必要はないかもしれない。ルイが島の医院を継ぐことも、トツ子やきみとの出会いを通じてずっと前向きに感じているかもしれない。描かれていないことが負のことだけでなく、素敵なことが三人の間ではもっともっとあったのかもしれない。類が島を離れたあとも“しろねこ堂”のバンド活動は続いていくだろう。
「裏切らない裏切りみたいなものもいいだろうかという気持ですね。ちょっとした反骨精神でもあります。」
本作「きみの色」はSTORY Inc.のプロデュースによるものだ。「君の名は。」を生み出した東宝の古澤佳寛と川村元気が設立した映像作品の企画製作会社で、その後の一連の新海誠作品(「天気の子」「すずめの戸締り」)を手がけたヒットメーカーだ。
当初「きみの色」の公開は2023年秋とされていたが、製作遅れから完成したのは2024年の1月末。日程的にはそのまま春休み映画として公開することもできたと思われるが、新しい公開日は夏休みも終わる8/30(金)に設定された。この公開日設定は、あの新海誠監督の出世作である「君の名は。」と重なる(2016/8/26(金)公開)。当時まだマニアの間でしか知られていなかった新海誠の名を、世の中に知らしめたのが「君の名は。」であり、自分はここに山田尚子監督をそれに続く新しいブランドとして立ち上げたいという意図を感じた。もちろん憶測の域を出ないわけだが、山田尚子を河村元気に引き合わせたのが新海誠そのひとであり、プロデュースする方としても意識はしているだろう。
「君の名は。」の成功は、新海誠監督がそれまで培ってきた圧倒的な映像美とオタク受けするセカイ系のストーリーに、一般層が受け入れ可能なエンタメ要素(実在する舞台設定、ストーリー改変とRADWINPSによる音楽)を組み込んだところにある。もともとゲーム会社に勤めていた出自もあって、作品プロデュースに対する受け入れ幅の広さも幸いしたように思われる。
山田尚子監督の場合、美術畑のバックグラウンドを持ち、京都アニメーションという内製で独自の世界を築くことのできる環境で頭角を表した。水彩、デカルコマニーを使った表現や、手ぶれ、レンズフレア、フィルム質感の表現など、映画としての映像表現も追求するひとという印象だ。ストーリーよりはキャラクターに寄り添う表現にずっとこだわりがあり、それが作品を独特なものに押し上げている。が、それと売れる売れないとはまた別の話だ。
新海誠監督は、その後「天気の子」「すずめの戸締り」とヒットを続けた。セカイ系の話は、いつしか気候変動や震災などの自然災害、原発事故といった日本あるいは世界を取り巻く大きな物語へと繋がり、それが受け手を魅了しているひとつの要素にもなっている。けれども物語として語られるものが大きくなっていることに、違和感、より率直に言うと怖さも感じる。多くの人を巻き込むナラティブは、裏を返せばある種の扇動にもなりうる。受け手は大きなナラティブに自分の身を委ねることで、感情の揺さぶりとカタルシスを得る。それが作品のヒットと無関係だと言うのは、少し楽観的すぎるだろう。
もともと山田尚子監督作品には、原作というナラティブのベースがあった。が、今回はオリジナルである。物語のためにキャラクターに無理に語らせたり、都合のいいように動かしたりしない、と語る山田尚子監督が示したナラティブは、世界を救うこともなければ、学校を救うこともない。本当に小さな一隅で、ひとの色が見える能力により引き合わされた三人の高校生が、バンドを組んで学園祭で曲を披露することができた、言ってしまえばそれだけの話だ。三人の抱える事情は変わりなく、トツ子は色が見えるし、きみは学校には戻ってこないし、ルイは島からは離れることになった。それでも、好きと秘密を共有する仲間を得て、彼らの曲も幾ばくかのひとには届いただろう。そんなナラティブを僕らはどういう目で見るだろうか。
作中に出てくるニーバーの祈りには「変えられないものを受け入れる心の静けさをお与えください。」 に続いて「変えられるものを変える勇気と、その両方を見分ける知恵をお与えください。」とある。個人的にこの言葉は、一躍エンタメの大きな地位を占めることになったアニメーション作品に対する山田尚子監督自身の挑戦のマントラであり、「きみの色」はその反骨精神の現れのように思えた。