「津波の霊たち 3・11 死と生の物語」(リチャード・ロイド・パリー/早川書房)

津波の霊たち 3・11 死と生の物語 (ハヤカワ文庫NF)

久しぶりの読書日記。

始まりは1/21に英タイムズ紙に載せられたこの記事。日本政府がコロナのため五輪中止が必要と非公式に結論付けたとの報だった。

Twitterでもこの引用を目にしたが、この記事を書いた記者リチャード・ロイド・パリー氏に関する記事を別のところで目にすることになる。

見出しに「日本人の我慢に飽き飽き」とあり、これが俄然興味を引いた。インタビュー中、彼はこう答えている。「災害以外の状況下で、政府への期待値が低いことは一般的に言って、『悪いこと』になり得ます。」

昨年来続くコロナ禍、そして東京オリンピックを巡る様々な出来事。僕は、世の中の空気がこれらの事件や不幸について、何か台風のような天災が来たときのように、避けられぬものとして扱っていることにひどく違和感を感じていた。年初のエントリー「傾国」でも書いたように、たとえ大きな災厄や想定外の事象があったとしても避けられる不幸は厳然としてあり、それを貪欲に希求することを躊躇してはいけないのではないかと。黙っていてることは悪なのだと思うようになった。彼のこの言葉はまさにいまの自分に刺さる言葉だった。

以下、「津波の霊たち」の中から特に気になった部分を引用する。

私はときどき、なぜ日本ではもっと単純な結論に至らないのだろうと不思議に思うことがあった。ある程度の不平不満の吐露、口論、混乱、さらに少しばかりの略奪や不当な値上げを大目に見てもいいのではないか?一般の人々が立ち上がり、権力者を黙らせ、自分たちが選挙で選んだ政治家の行動に対する責任をとるという意欲があるのであれば、ごく私的な身勝手な行為がもっと赦されてもいいのではないか?

 私としては日本人の受容の精神にはもううんざりだった。過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた。おそらく人間の域を超越したあるレベルでは、大川小学校の児童の死は、宇宙の本質に新たな洞察をもたらすものなのだろう。ところが、そのレベルよりずっとまえの地点ー生物が呼吸し、生活する世界ではー児童たちの死はほかの何かを象徴するものでもあった。人間や組織の失敗、臆病な心、油断、優柔不断を表すものだった。

当局による上訴によって費やされた三年という期間は、ただ公的資金を無駄遣いし、想像できうるかぎりすでに最大の損失を被った人々の苦しみを長引かせただけだった。私としては、裁判で闘いつづけるとを決めた官僚たちは、当局になんの落ち度もないという純粋な確信を持ってそのような行動に出たのではないと思う。彼らは、「自分がまちがっていると公務員はけっして認めてはいけない」という原則にもとづいてその行動を取った。非難を受け容れるのが当然の場面でさえ、責任を認めるという行為は、公共機関の体面を傷つけることを意味した。

僕は、いまの日本の社会規範が決して劣ったものとは思わない。でも完全なものでもない。状況は変わり続け、それに対応し続けなくてはいけない。完璧はない。失敗もする。でもよい方向には向けることができる。政治に、もっと関心を持たなくてはいけないと思う。選択した結果なのであって、与えられたものではないのだ。

引用だけみると、英国の記者が上から目線で何やら批評めいたことを書いた本のようにも読めるが、これはこの著書のごく一面でしかない。多くの内容は、宮城県石巻市・大川小学校で起きた悲劇に関係した人々(主に児童の保護者)への膨大なインタビューから紡ぎだされる、東日本大震災に遭ったひとびとの声の記録であり、またその死と生の記録でもある。

もうすぐ震災から10年。有体に言えば、自分はこの未曾有の災害に、本当に向き合うことなくここまで来てしまったようにも思う。でも関係者の「声」のおかげで、大川小学校はまだその地にその姿を残していて、いまなお向き合う機会を与えてくれている。「声」をあげることの大切さを改めて思った。