「アニクリvol.12」「ラブコメ・ヌーヴェルヴァーグ」論を読んで

買ったままそのままになっていた「アニクリvol.12」を少し読む。冒頭のてらまっとさんの「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」論と、その後のコメントを大変面白く読ませていただいた。

特にはっとしたのは、てらまっとさんからコメンテーター&対談者への返答で『「自由で自律的な個人」がフィクションであることを前提に、それでも人々がそのような個人であるかのように振舞うことを可能にする、ある種の「装置」について考えなけければいけない』とされていたところ。

自分語りになってしまって恐縮だが、自分の子どもが生まれたあたりに、奥さんからヴァルドルフ教育についての子安美知子の著書「ミュンヘンの小学生」を紹介され、「自由な教育」ではなく「自由“への”教育」に大変感銘を受けた。

その後、ヴァルドルフ教育を掲げる幼稚園に子どもを入れ、小学校こそ普通の学校に通っていた(日本だとそもそもヴァルドルフ学校自体非常に少ない)ものの、地元の保護者有志とヴァルドルフ教育を志す先生で運営していた土曜学校にも携わったりして、とてもよい経験と学びがあった。なので、「装置」という意味では、「教育」あるいはそれを成す「学校」の持つ力の重要性に大変深い思いを抱いている。

閑話休題

ここで述べられている「ケア」の話、そして「依存」の話については、小川公代氏の「ケアの理論とエンパワメント」から引かれている「従来のリベラリズム的な『正義の理論』の前提となる『自由で自律的な個人』を相対化し、そこからこぼれおちる病人や老人、障害者などの他者に依存した生のあり方に注目している」ところには、確かになるほどと思うところなのではあるのだけど、その上で「自律/自立した『強い』自己を暗黙の前提とするのではなく、互いに依存し合う『弱い』自己を包摂するような社会へと、いわば『ダウングレード』していくべきではないか」と、“強弱”の関係とされているところはやや違和感を感じてしまった。

もちろん「自由“への”教育」が必要なように、「自由で自律的な個人」は自然発生的に成しうるものではなく、ある種終わりなき不断の努力を要するものである。その点においては「『自由で自律的な個人』という近代の輝かしい存在が、いかにフィクショナルな存在なのか」という認識も現実を捉えてはいると思う。しかしだからといって、強者は「自由で自律的な個人」を獲得し、そこに至れない弱者はケアにて補うべきであるというのは、必要なRemediationではあるけども、一方でその状態の固定化に加担してしまう危険性もあるのではないかと思う。本質的には「自由で自律的な個人」として振る舞えない障害を「他者」が取り除くことではないだろうか。

ただ後段で触れられているように「『自由で自律的な個人』なる存在は、逆説的に、より多くの依存=ケアがあって初めて成立しうるのです」というのは大いに納得するところで、フィクションによる効用を決して否定するものではなく、非人間による「ケア」は、むしろヴァルドルフ教育でいうところのお話や見立て遊びなど、よりEducationalな側面を持つものとしても捉えられると思う。「スイングバイ」と表現されている、まさに心の跳躍こそがフィクションの持つ力であり、生きていく糧に値するものであろう。

いずれにせよ、今回の「ラブコメヌーヴェルヴァーグ」論は、批評のフレームとしていろんな議論が期待できる面白いネタではあるので、続く寄稿を楽しみに待ちたい。