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「迷走する両立支援 いま子どもをもって働くということ」(萩原久美子・太郎次郎社エディタス)

迷走する両立支援―いま、子どもをもって働くということ

TwitterのTLで流れていた kobeni さんの日記「ある日、あなたが、長時間労働できなくなったら。〜「迷走する両立支援」を読みました〜」を見て、何か今まで見たのとは違うレベルの子育てと仕事の関係の議論に興味が沸いて読んでみました。

感想を一言で言えば「重い」。既に多くのひとがコメントされているように、丁寧な事例採録から展開される筆致は、読むものを捉えて離しません。そして当事者であればあるほど、そのリアルな言葉が自分の置かれた状況と重なり、「痛い」とまで言わしめるほどの感想を持たせるのだと思います。ただ著者の萩原さんも書かれているように、この本は特に何らかの処方箋を提示しているものではありません。ともすれば陥りがちな安易な提言などは一切排除され、彼女自身が多くのフィールドワークを通じて苦悩したその過程がありのままに描かれています。「迷走する」と形容されるこの本のタイトルは、両立支援の様々な施策のみならず、彼女をはじめとするこの問題に関わる全てのひとたちが感じている思いに他ならないのではないか、そんなふうにも思いました。

できるだけ当事者の声や現場の事実を取り上げている本の感想を一般論で返すのは趣旨に合わないと思い、自分の事例をもって少し感想を書いてみたいと思います。自分は子ども二人(小学生、幼稚園児)で共働きをしているとはいえ、この本で取り上げられてる事例よりははるかに恵まれていると思います。僕はソフトウェア開発という長時間労働の典型みたいな職場ではありますが、今どきめずらしく完全フレックス(コアタイムなし)が許されています(たぶん... 査定はともかく上司や人事からお叱りを受けたことはない)。奥さんは学校関係で勤務時間は非常に厳しく(当たり前ですね)休めない職場ではありますが、残業が発生することはあまりなく(会議がのびるとかその程度)、週休3日で長期休暇中は在宅勤務ができます。手が足りないところは、延長保育、民間学童保育やベビーシッターの方にお願いしたりしています。僕が出退勤時間を調整したり、彼女が時間をかいくぐって用事をしたりもします。そういう意味では職場や地方自治体が提供する両立支援の制度的なものはほとんど利用せずに、なんとかやってこれていると思います。ただ、だからといって、この本が取り上げている問題にひっかかっていないかというと、そういうことでもないのです。

ひとつは「均等」の問題。やはり子育てをしていくなかで、母親に具体的に出番を要請されることはものすごく多いです。父親の出番なんてまぁオマケみたいなものです。僕は彼女の代わりにしばしば出向くことがあるのですが、実際問題別に父親だって困りはしないんですよね、多くの場合において。でも「お母さん」を要請されるのはどうしてなのか。また父親が行くと「あらー、お父さんですか。どうもご苦労様です。」なんて褒められたりすることもあります。同じことを母親がすると当然のように思われる。そりゃ僕は悪い気はしないですが、彼女にとっては忸怩たる思いですよね。「どうしてあなたばっかり」「わたしだって子育てを仕事でないがしろにしたいわけではないのに」と。どうしても母親でなくてはいけない場面以外は「保護者」という形で父親にも出番を要請すればいいかというと、そうでもない。僕のようにすちゃらかと仕事を放り出して遠足の付き添いに行ってしまったりすることができればいいですが、職場においてそれが許されないひとは、やっぱり「おれだって子育てを仕事でないがしろにしたいわけではないのに」という思いに駆られる。結局のところ家庭内カニバリズムから抜け出せることにはならないのです。

もうひとつは「自己葛藤」の問題。家庭での「父親」「母親」の思いと、職場での「私」の思いをどう折り合いをつけていくかです。僕は朝、幼稚園に下の子を送ってから職場に向かうことが多いのですが、幼稚園の先生やお友達のお父さん、お母さんと会話しているあの世界と、職場の世界があまりにも違いすぎて、そのギャップにしばしば戸惑うことがあります。冷や水をぶっかけられるような感覚とでもいいますか。でもどちらも自分にとっては大切な場所で、それぞれをそれなりに充実させたいと思うわけです。しかしながら、時間の流れ方も支配するルールも違うその世界を自分の中で矛盾なく繋ぎ合わせていくことは、しばしば困難です。例えば。明日までに直さなければいけないバグを徹夜ならやりとげられるかもしれないが、ここで徹夜しちゃったら朝一で出かける家族の支度は誰がやるのか。しかしだからといってバグ取りしなかったら、確実に誰かは迷惑を被るわけで、そういう態度はプロフェッショナルと言えるのか。そんなことではいつまでたっても管理職になれないのでは。でも自分以外に自分の家族のことを気にかけてくれるやつなどいないのだから、そちらをやるべきだ。キャリアとかそんな大層な話でなくとも、そんなことがわりと日常的に発生します。そしてどちらもうまくいくことは、ほとんどの場合においてないのです。

いずれも、それが何かの法律や制度や施策や支援活動で解決されうるものではないように思うのです。

親のニーズ、企業のニーズ、国や自治体のニーズ。それに応えるサービス、商品、制度。そうしてつぎつぎと「解決策」がくりだされてきた。それはたしかに「ニーズ」にもとづくという説得力をもちながらも、なにかを切り捨て、この社会での両立のゆくえにどこかうすら寒いものを感じさせて走り出している。(p.280)

個々が抱える問題が複雑であればあるほど、それを解くのは最終的にはやはり本人しかないように思います(ちょっと冷たい言い方ですが)。社会はその解決を一足飛びに要請するのではなく、理解をするところからはじめるしかないですし、それは立場がどうであれ可能ではないかと思うのです。それが結果的に解決を支援する、その始まりことになるのではないかと思います。

そして「先ず隗より始めよ」ですね。