「これからの『正義』の話をしよう」(マイケル・サンデル、早川書房)

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学

NHK「ハーバード白熱教室」を見始めたのは途中の第7回からだったので、ちょっと残念に感じていたのだけど、元ネタ本の日本語訳が読めるとあって、最終回終了後に早速読んでみた。講義の前半に出て来たと思われる「功利主義」「リバタリアニズム」についてようやく話が見えた。最終回でサンデル教授自身の「コミュニタリアニズム」に関する持論がまくしたてるように展開され、少し消化不良気味だったのだけど、それもなんとか咀嚼出来たように思う。まぁそれはそれとして。

この本の奥付をみると初版が「2010年5月25日」となっていて、僕の持っているアマゾンから買った本は「2010年6月29日」でなんと33版!一回の増刷でどれぐらいの部数を刷っているのかは定かではないのだけど、相当な部数が売れているということになるだろう。しかしこれは驚くに値しない。なぜなら、もう既に多くのひとは気づいているのだと思う。いま、社会の仕組みを考えるにあたって、つまり具体的には行政であったり法律であったり、ひいては政治と呼ばれるものについて、何が必要か。

話を少し過去にさかのぼらせてもらう。自民党が小泉郵政選挙で大勝したときに、にわかに憲法改正の話が現実味を帯びて議論された期間があったように思う。実際僕もその影響で日本国憲法というものに興味を持ち、いろいろ本を読んだ。そのうちのいくつかはこの読書日記でも触れている。その自民党憲法改正草案での一番の議論の焦点になったのはとりもなおさず第9条であると思うのだが、個人的には自民党が草案を作る過程において一番こだわりがあったのは別のところだったように思う。憲法前文である。実際に試案の付帯資料として「前文作成の指針」が明記されている。その中の一節にはこうある。

現行憲法に欠けている日本の国土、自然、歴史、文化など、国の生成発展についての記述を加え、国民が誇り得る前文とする。

僕はこの主張には一定の理解をしつつも、どこかおかしみを感じずにはいられない。国の成り立ちを決める憲法について、国民が誇らしいと思うかどうかを憲法の実際の条文に対して感じられるようにというのであればわかるのだけど、なぜに前文なのか。また前文に対してそのような役割を課すということは、とりもなおさず国民が誇らしいと思うものと憲法条文の内容については、厳密な意味において関係がないということを認めてしまっているようにも思えるからである。それでもなおこの草案における前文の持つ意味合いは大きい。教育基本法改正で議論になった「愛国心」の問題についても結局根っこは同じところにあるのではないかと思う。それは単なる社会の秩序にとどまらない、サンデル教授の表現を借りるのであれば、誇りや栄誉と賞賛に関する一定レベルの政治の介入である。

しかしこれに対して、日本の少なからずのひとにアレルギーがあることを無視することはできない。戦前の日本がそうであり、講義でも述べられていたが、そのような介入は個人が帰属する文化や価値観に対する権利を制限することにつながるからである。けれどももう多くのひとは気づいている。経済を基軸することより他のことを権利を侵害しないという一点で忘れていられる時期は終わったのだと。それ以外のときと向き合うときが来たのだと。

例えば「子育て支援」を取ってみても、国が直接子育てを賞賛することは、子を持たない・持てないひとに対する価値観を間接的に認めていないことにならないのか、という問いはもう長らくされてきた。それに対して「子育て支援」は「少子化対策」と名前を変えて「人口構造のアンバランスによる経済活動の停滞や年金問題に対応するための経済的な対策」になった。でも、今求められるのは「子どもを持ったり、教育に携わることへの栄誉と賞賛」についての答えなのだ。もちろんそれに対する価値観は多様であり、どれかを選び取るということは難しい。でももうその本質を見ない議論は多くのひとにとって意味がないのだと思う。少なくとも僕にとってこの本は、それに対して理論的裏付けを与えてくれるものでした。

書いていて、ちょっと以下の話につながるところもあると思いました。興味のあるひとは読んでみてください。
「いまさらながら、「朝まで生テレビ〜若者不幸社会〜」東浩紀 ”退席” に思う」