劇場版「ヴァイオレット・エヴァーガーデン」感想

原作の完結編が期待をはるかに上回る出来だったので、原作とは違う結末を辿るであろう劇場版も大いなる期待を抱いていたのですが、正直感想を書くのがこんなに大変になるとは思いもしませんでした。

ヴァイオレット・エヴァーガーデン」は、もちろんヴァイオレットと戦争で苦楽を共にした上官ギルベルトとの恋物語の側面が強いわけですが、この作品のタイトルがずばり主人公であるヴァイオレットの名前そのものであるように、本質的には彼女の人生譚であろうと思います。人の感情がわからなかった彼女が、上官が遺した最後の言葉の意味を知りたいという極めてパーソナルな理由で代筆業(ドール)という職業に就き、そこで出会った様々な人々の思いを手紙の代筆を通して感じることで、彼女自身の人格が再生されていくという面白い構造をもったお話なのです。

しかしこの劇場版を作ったひとたちは、どうしてもヴァイオレットを守るべき可憐な存在として描き、その願いを成就する恋物語が作りたかったように思えてなりません。もちろんアニメシリーズを通して「あいしてる」という言葉が一貫したテーマであり、それに対して答えを出す結末が必然であったということは否定しません。そして事実彼女はまだ幼い。劇中、夜分ホッジンズがヴァイオレットの部屋を尋ねるシーンでは、彼女はいつもの戦闘服(ドール衣装)ではなく寝具を身に纏っていました。その姿はとても大人と渡り合って仕事をできる存在ではないように見えました。

しかしながら彼女が積み上げた代筆を通して人の思いを汲み取るという優れた才能は、いったいどこに昇華されたのか。冒頭のデイジーマグノリアが発した「18歳で郵便社を辞めてそれ以降、彼女の記事を見ることはない」というセリフで、僕の頭は真っ白になってしまったのです。彼女はCH郵便社でのドールの仕事、ホッジンズ、ベネディクト、カトレア、エリカ、アイリスらの仲間たち、そしてライデンシャフトリヒの街も「あいしていた」と思うのです。彼女がそのような決断をするに至った理由が知りたい...でも残念ながら僕はその理由を作品の中に見つけることはできませんでした。劇中でユリスの危篤の報に触れて今すぐ帰らねばと言い出し、ギルベルト会えなくとも「お声も聞けて、それだけで私は十分です」といったところだけが、彼女らしさを感じられる一幕でした。

僕はヴァイオレット・エヴァーガーデンが大好きなのです。自分の歳も両親の記憶もなく、孤児となり幼い日々を戦場で過ごし、やっと拾われた最愛の上官とは生き別れ、それでも彼女は生きようとし、与えられた仕事に場所を見つけ、そしてやがてひとを生かす存在になっていく。そんな彼女はしなやかな強さにぞっこんなのです。もちろん彼女の弱さもたくさんあり、ギルベルトこそがその中心であるわけなのですが... だからこそただの「あいしている」ではなく、ギルベルトもヴァイオレットの強さを感じて彼女の人生を肯定してあげるような何かがあったら、ずいぶん印象も違ったように思います。

純粋に映画としても、デイジーマグノリアがどうしてヴァオレットに興味を持ち、彼女を追いかけようとしたのかの動機付けが弱くて、物語のナレーションをさせるためだけに出てきたような存在になってしまっているのが大変残念でした。

ごめんなさい。こんなこと書きたくなったんだ... 本当は。そんな感想であったとしても、作品を世に出すことに尽力された皆さんには感謝でいっぱいです。とにかく観られてよかった。それだけは間違いないです。ありがとうございました。