「アイの歌声を聴かせて」を観ながら思ったこと

今日、川崎のチネチッタに「アイの歌声を聴かせて」の2回目を観に行ってきた。そしてようやくこの感想を書いている。

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チネチッタにて展示

「アイの歌声を聴かせて」は、ずっと楽しく観させていただいている吉浦康裕監督の最新作、そして名作「イヴの時間」を受け継ぐ、アンドロイドが登場する作品というだけあって、僕の中では今年一番の期待作だった。

ミュージカル仕立ての演出は映画の楽しさを存分に表現しており、シオンの間抜けた感じと愛らしさは作品全体を明るく照らし出している。登場するキャラクターは個性的で青春群像劇としての奥行きを出している。名作と言って過言はないと思うのだが、それはあくまで客観的にみた評価であり、個人としてはいまいちそれに乗り切れない歯痒さがあった。

先日の細田守監督「竜とそばかすの姫」を観たときの反応とも共通するのだが、どうも自分の中にある規範意識が作品を純粋に楽しむことを阻害しているような気がする。

例えば、主人公サトミの母親である美津子。シオンを生み出したプロジェクトの責任者でもある彼女は作品のキーパーソンであるのだけど、家のことはサトミに任せきりで、仕事に没頭するタイプとして描かれている。男性優位のホシマという組織の中でのし上がっていくには避けられない行為で、もちろんサトミの美津子に対するコミットがあってのこととは思うのだが、大人と子供という非対称な関係の上で展開されるやりとりを見ているのがちょっとつらくなってしまったりする。

あるいは電子工作部。ホシマの城下町でAIの実証実験もやっている軽部の高校の電子工作部となれば、もっと花形の部として描かれるようなことがあってもいい。いかにも窓際文化部風情の屋上のプレハブ小屋で、部員も男子ばかり。男女問わずエンジニアを目指すような雰囲気があってもいい。

あるいは野見山さん。あのポジションに収まるまでにいろいろあったんだとは思うけど、美津子の年下上司のものとで、うだつのあがらないオッサンとして描かれてしまうのはなんとなくステレオタイプな印象を受けてしまう。

もっと作品の根幹に関わる「なぜシオンは女子高生の形を模して造られたのか」というのもあるのだけど、それをここに挙げたものと同列に語るにはあまりに大きな話題なので、一旦脇においておくとして。

どれもほとんどイチャモンレベルではあるのだけど、素晴らしき青春群像ミュージカルを楽しむ前に、そういう些細なことにつまづきまくっている自分がいる。

もちろん大衆娯楽作品を前にして、ジェンダーの問題意識とか、ダイバーシティインクルージョンを考慮したものでなくてはならない、なんて叫ぶつもりは毛頭ない。それこそ出過ぎたマネである。でも自分の中の心の声を無視することはできない。

例えば最近観始めた「ラブライブ!スーパースター!!」では、こんな感想を書いてしまった。

自分でもちょっと異常だと思う。

今日2回目を観に行ったのは、1回目のつまづきを一旦全部括弧に入れた上で鑑賞したかったからだ。それは功を奏したようで、満足のうちに映画館を後にすることができた。鑑賞姿勢としてどちらがいいということはないと思うが、映画を楽しむ上で少し気にしながら考えてみたいと思う。