「祈り」と「語り」 - 「平家物語」雑感

古典の金字塔である「平家物語」のアニメーションを山田尚子が手掛けるというだけで期待十分なのに、脚本が吉田玲子で、音楽が牛尾憲輔とくれば、これはきっと自分に何かを残してくれるに違いない。早る気持ちを抑えつつ、FODで全11話が揃ったところで、一気観しました。

ど直球の作品でした。

高野文子のキャラクターデザインと声優さんたちの見事な役作りと演技(悠木碧さんもとてもよかったけど、早見沙織さん!どうしてはあんなに透き通った声を出せるのだろう... ほんとうに徳子の声のパワーはすごかった... )によって、登場人物は生き生きとした人間として描かれており、奥まってしまいそうな平家物語のエピソードは、びわの語りで回収していくという秀逸な造り。何も言うことはないので、後はどうか観てくださいと言いたくなるのだけど、シリーズを観ながら考えていたことをひとつだけ書き留めておきます。

びわというオリジナルキャラクターは、このシリーズを観る受け手(つまり我々)の視点、すなわち「目」を具現化したものとして作中に登場するわけですが、作中のキャラクターたちにとってびわとはどういう存在なのだろう、ということをずっと考えていました。当時の身分ある人物の周りには、家族だけではなくたくさんの使用人が居たであろうことは想像できるのですが、びわのような近い位置に置かれたものがどの程度いたのでしょうか。びわは琵琶奏者というのが表向きの役割でしたが、その特殊な目の能力によって、どちらかというと人ならざる者のような扱われ方、端的に言えば化物のような存在であったかもしれません(実際そういうセリフもあった)。しかし平家の人々は、その化物に対して様々な投げかけをします。当時は直接話すか文をやりとりするか、コミュニケーション手段が限られていたので、ひとそのものがコミュニケーションの「媒体」であったであろうと思います(手紙も結局は誰かが運ばねばならないので)。びわ自身には何の力もなく、彼らの人生に直接関れることがない。しかしだからこそ、平家のひとにとってびわは、いまと過去を繋ぐものであったり、居るものと居ないものをつなぐ「媒体」になり得た。途中、びわから愛おしさのようなものを感じるようになったのは、そのせいかもしれません。

しかしびわ自身は辞書やアルバムのようなものではなく、あくまで人間で。語ることで彼らの死後、彼らに大きく関わっていくことになります。最後の「目」の色の変化は、物語の装置としてのびわというキャラクターが「目」から解放され、「びわ」というひとりの人間として描かれたということなのでしょうか。

山田尚子インタビューで「今回のアニメでは叙情詩としての『平家物語』を描いてみたい」とコメントしていましたが、徳子は祈る道を、びわは語る道を選ぶ最終回の結びは叙情詩にふさわしく、心の内と外を包むとても好きな着地でした。平家物語のエピソードを構成する登場人物のキャラクターとしての面白さと、物語を語る存在としてのびわの物語という二重の構造を持つことで、「最終回のストーリーは初めから決まっていた」物語を、現代のアニメーション作品として楽しめる作品に仕上げられていたと思います。