「すきだ」から「だいじょうぶ」へ

新海氏の作品は良くも悪くも昔から変わらない。

以前も書いた通り、作品を反復開発のように作っていくやり方が氏の特徴で、それは今年公開された「天気の子」でも変わらなかったように思う。ボーイミーツガールであり、青臭い思春期真っ只中の少年少女が彼らのロジックで世界を切り取っていく。「君の名は。」ではどちらからというとややエンタメ方向に振れた感があったけど、00年代美少女ゲームファンがざわついたように、エンタメの一線は保ちつつも、今回はもっと新海氏の濃ゆい汁のようなものが生のまま端々に染み出していた。ともすれば「君の名は。」で取り込んだ観客に拒否反応を抱かせるのではないかと心配するぐらいだ。

だからといって「天気の子」が氏のこれまでの作品の一バリエーションに過ぎないのかというと、それは断固として違うと言いたい。そこには明らかな進化があったと思う。

僕がとても驚いたのはエンディングの後日談の描かれ方があまりに真っ当だったこと。「君の名は。」では、ぼんやりとした過去の記憶から瀧と三葉は運命の再会を果たす。けれども「天気の子」では、過去はぼんやりとしたものではなく、その因果は現実(水没した東京)として目の前に突きつけられている。再会は運命ではなく帆高が選んだ未来そのものだ。彼は島に戻り、きちんと高校を卒業し、東京に大学進学を決めて戻って来たのだ。無論、その間陽菜に会いたい気持ちはずっと持っていたにちがいない。家出で東京に来たときは、お尋ね者になろうが拳銃をぶっ放そうがおかまいなしだった彼だ。でも変わった。東京に来てもなお、会うことを逡巡するのだ。

極め付けは再会を果たして最初に言うセリフ。「だいじょうぶ」。いやはや。「好きだ」「愛してる」「もう二度と離さない」ふたりの関係からすればそんなセリフが飛び出してもよかったかもしれない(いささか陳腐だけど)。でも彼が口にした言葉はもっと大きな意味での愛のことば、存在の肯定だった。あの場面は新海氏が帆高の言葉を借りて映画を見に来た少年少女たちに直接向かって話しているのか、と思えるぐらいのインパクトだった。

パンフレットには新海氏のこんなコメントが載っている。

「仮に『天気の子』が、僕が以前作っていたような単館系で興行される映画であれば、設定は同じでも違うストーリーにしたと思います。作品の優劣とは関係なく、興行のされ方によっても作るべき物語というのは変わってくるんだ、というのが『君の名は。』で僕が得た実感です。」

夏休み映画という大舞台で、友だち同士あるいは恋人同士で映画を見に来た若い世代のひとたちに、いま彼らが一番欲しい言葉を届ける目論見は十分に果たされた、そんなことを感じた映画だった。