「アニクリ vol.5s」を読んで思ったこと

「アニメクリティーク」(Twitter: @anime_critique)は、Nagさん(Twitter: @Nag_Nay)さんが編集をされているアニメーション批評誌である。自分もかつては、宮崎駿などを追いかけて同人誌とかを作る真似事をしていた時期もあったのだけど、結婚、子育てのような時期を経て、アニメーションを見ることも少なくなり、同人誌を作るどころか即売会へ行くことすらほとんどなくなってしまった。

そんなある日、たまたま寄った秋葉原のCOMIC JINで出会ったのが「アニメクリティークvol.9.5 リズと青い鳥総特集号」。衝撃を受けたのはその分厚さ(笑)。批評、論考、小説など、溢れる言葉が250ページ余。「リズと青い鳥」はとても好きな作品なので、これだけ語られていることがまずうれしかった。そしてWeb全盛の時代にあって、紙媒体の形で刊行されていることにも感銘を受けた。内容も、自分のようなアニメファンとも言えないただの一般人には理解することが難解なものが多いが、それ故に新しい知識や考えとの出会いが楽しかった。気に入った論者の方のTwitteアカウントをいくつかフォローさせていただいて、最近のアニメ事情のようなものも少しずつ見るようになった。まさに自分にとっては、昔の自分が触れていた世界との再会であり、同時に新しい世界の発見でもあった。

その「アニクリ」の最新刊が、先日11/23の文学フリマ東京で頒布された「アニメクリティークvol.5s 続・アニメートされる〈屍体〉」。せっかく読ませていただいているのだし、何か少しでも感想なり、コメントなりを書こう、と心に決めて読み始めたものの、やはりムズい。当たり前である。気に入ったアニメをパラパラと見ているだけの者に、何を語れる言葉があるのか。しかし何か書きたい。悩んだ挙句にひとつの論考を取り上げて、その感想に変える形で思ったことを書いてみることにした。

「劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト」から「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」を読み解く

本のトリとして掲載されているフクロウ氏の「wi(l)d-screen baroqueとは、キャラクターを生身の人間にすること。すなわち、魂(animus)を吹き込むこと」-『劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト』まとめは、作品に対してwi(l)d-screen baroqueなる装置がどのような働きかけを為したか、に関する論考である。

自分はこの論考に対して直接コメントするには全く知恵が足りないのであるが、以下の部分

執着からの解放 、Epicureanism に基づいた自然体の、あるべき信頼関係(bona fields)を実現すること。これは例えば夏目漱石が主として文学において取り組んだ課題であるが、それをアニメ映画でやるとこうなる、ということでもある。

に関して、以前フクロウ氏とのTwitter上でのあるやりとりを思い出したのだった。それは、劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンで提示された筋書き=恋物語の成就にぼやいている自分に対する、フクロウ氏の以下のコメントのことである。

これを書いた当時は、「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」が、TV版の「『愛してる』を知りたいのです!」というところから始まったヴァイオレットの物語を締めるために、「愛してる」の成就、すなわち二人が結ばれるということを140分かけてやりやがった、ヴァイオレットの物語はもっと深い(ギルベルトとの関係性以外のところにある)はずなんだ!というような考えに囚われており、氏のコメントを正しく受け止めるには至っていなかった。

しかしフクロウ氏の論考にあるように、キャラクターに背負わされた役を降り、「本心」を「曝け出す」ことを経て、傷を修復し、新たな関係性を構築していくという、「劇場版レヴュースタァライト」の流れに沿って「劇場版ヴァイレット・エヴァーガーデン」も読み解くとするならば、劇場版は恋物語の成就というよりも、TV版では未解決のまま放置された、ギルベルトとヴァイオレットの上官と部下、主人と道具という関係から、自由人としての二人の関係性への再構築を綴ったものということができる。

実際、ヴァイオレットはドールの仕事を通じて「愛してる」の意味はわかっていたはず(定評のある恋文を書くぐらいなので)なのに、なぜ「『少し』はわかるのです」という言い方になるのか。それは彼女自身が、上官と部下、主人と道具という関係でしかギルベルトと渡り合っていなかったからに他ならないのではないか。ギルベルトが生きており、会えるかもしれないわかったときに現れる動揺にも、はっきりとそれを見てとることができる。

ギルベルトの小屋での扉越しの拒絶の会話は、ギルベルトからヴァイオレットに対する本心の吐露であり、ヴァイオレットからギルベルトへの手紙は、ドールとしてではない彼女の素の姿である(とするならば、その内容の拙さも理解できるかもしれない)。そしてディートフリートから家督からの解放を言い渡されたギルベルトと、ホッジンズの乗る船から飛び降りたヴァイオレットが、海の上で初めて互いが自由人として関係の再構築に至る。

まだ全編を見直してはいないが、今回の「劇場版少女☆歌劇レヴュースタァライト」に関する論考により、自分が今まで見えていなかった「劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデン」の相貌を得ることができるかもしれない。

氏の論考の感想としては全く稚拙の限りではあるが、ここに書き留めることで氏への感謝の気持ちが伝われば幸いである。