「風立ちぬ」感想

風立ちぬ (ジス・イズ・アニメーション)
不思議な映画だった。どう贔屓目にみても話の流れは複雑で、ある程度の歴史や時代背景が頭に入っていないとそれが意味するところを理解できないし、カタルシスも控えめに表現されていて、ハッピーエンドでもなければ、悲劇が描かれているわけでもない。2時間20分に収められた内容は膨大で、悪く言えばまとまりがないようにも思われる。観ている間ずっと、どうにもならない重石に縛り付けられているようにも感じた。あの時代に生きたひとは大なり小なりそういうものを抱えていたのだろうし、いまこの時代でも実はあまり変わらないといえばそれまでなのだけど。それでも。それでも。日本の田園風景や菜穂子の花嫁姿や空を舞う九試単戦の美しさは微塵も曇ることがないのだと、そういうことを描きたいがための映画だったのだろうか。それってえらい贅沢な話なように思うけど。
個人的には療養所を抜け出して名古屋に出てきた菜穂子を、黒川夫妻がきちんと迎え入れるところがとてもよかった。現実にはああいう流れになるのか少し不思議に思うけど、緊張の続く映画の流れで少しほっとできる瞬間だった。どんな事情であれ、祝い事はちゃんと祝い事として祝いましょうという、ごくごく当たり前のことだけど、堅苦しいと敬遠される慣習というものが存在する価値をよく表現していたと思う。
ものすごい勢いでコンテンツが消費されていく今にあって、「風立ちぬ」は少し意図とは異なる評価のされ方をするように思う。それは僕がこの作品を漫画のままの小品として留めておいて欲しかった理由なのだけども、願わくはゆっくりとこの作品が消化されていって、未来のどこか、小さな映画館でひっそりと見られたらいいなと思う。たぶん10年後に観ても、20年後に観ても、同じように思いを馳せることができることができるはずだから。

「氷菓」「遠まわりする雛」(米澤穂信・角川書店)

氷菓 (角川文庫)遠まわりする雛 (角川文庫)
誰もが思うであろうその不可思議なタイトルが気になっていたものの、京アニ制作というだけで「いつものあれか」とスルーしていた、その作品。小説にはまって結局アニメを見る羽目になり、気が付いたら Blu-ray をお買い上げ。作品への評価については、遅れてきたファンとして語るべきものは何もないのだけど、僕にとってこの作品の評価を決定付けたのは「遠まわりする雛」の表題作に出てくる千反田のこの言葉だった。

「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々もだんだん老い疲れてきています。山々は整然と植林されていますが、商品価値としてはどうでしょう?わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思いません。でも……折木さんに、紹介したかったんです」(「遠まわりする雛」より)

僕は地元の京都に残っていればするべき仕事があったのだけど、それを早々に捨てて、結局今でも帰らないでいる。それで良かったのかどうなのかなんて、今となっては考えることに意味はないのだけど、それでも千反田と同じぐらいの覚悟があったのなら、また違った自分を作ることができたのかもしれないと、やっぱり考えずにいられなかった。いまの仕事は大変だけど、もちろんそれに見合うだけの世界を僕にくれていると思う。それは京都に留まっていたら成し得なかったことだとも思う。でもこの言葉にふれて、結局は覚悟ひとつのことで、残念ながら20年前の僕はそこに到達できていなかっただけなのだと、自分を恥ずかしく思い、そして彼女を意味もなくうらやましく思った。
加えて、生まれた場所から離れない覚悟は、それが望むと望まざるとに関わらず、この激動の時代にあってずっと重要な意味を持ってくる、大切なことになるという、はっきりとした予感がある。
だから彼女が何を考え、どう行動するのか。もちろんぼとんどは小説には書かれることはないのだろうけど、これからもずっと見ていたいと思う。

育ちゆく子に贈る詩

先日の土曜日、月2回の小さなシュタイナー学校「森の学校」の卒業式がありました。
「森の学校」は3年課程なので、小学3年生で卒業です。シュタイナー学校では、毎年担任の先生が通信簿として子どもたちに詩を贈ります。卒業にあたって3年生に贈られた詩は、これから先のその子の道しるべとなるような内容で、とても心を打たれました。
上の子がもらった詩はこんなものでした。

太陽のようでありなさい
大地のようでありなさい
天と地の調和のとれたところにこそ
進むべき道があるのです
優しさと温もりと強さをあわせ持ち
新しい世界を創造するちからとなれ

以前読んだ育ちゆく子に贈る詩(うた)―シュタイナー教育実践ノートというシュタイナー学校の活動記録の本でも、同じように詩の話が出てくるのですが、その時僕は「親・親戚以外の第3者の大人から言葉を贈られるというのはいい体験になりうると思うし、自分の子どももそういう大人と出会って欲しいと思います。」という感想を残しています。

しかし実際に自分の子どもが詩を贈られるに至り、詩の持つ意味はもっと根源的なものだったのだと気づかされました。
なぜシュタイナー学校は担任が持ち上がりで、毎年子どもたちに詩を贈るのか。
子どもたちの自我のスイッチを入れる、これが教育の本質なのだと。
3年間ともに学んだ先生からの言葉というのは、たぶん本人にとって親よりも重いものでしょう。初めて鏡で自分のかたちを見せられたような、そんな感覚になるのではないかと思います。
ともあれ、とても心に残ったひとときでした。

作品の現代性「コクリコ坂から」と「土星マンション」

お盆の頃に「コクリコ坂から」を観てから、なんとか感想を書き付けておこうと思っているうちに随分時間が経ってしまいました。
コクリコ坂から (ジス・イズ・アニメーション)
規則正しい日常、歴史ある学び舎、愛すべき仲間たち、それを見守る大人。それらを舞台に描かれる恋と親子の想い。吾朗監督の作品ということで、多少演出の拙劣な部分もあったのも否めないと思いますが、描かれている世界は愛すべき世界で、自分の過去も振り返りながら強い共感を覚えました。ただ東日本大震災後の日本にあって、「上を向いて歩こう。」のキャッチコピーとともに世に問う作品になりえていたかというと、どうも届いていないような気がしてなりませんでした。確かに登場人物たちはそれぞれの生い立ちや境遇を引き受け、その中で誠実に生きていこうとしています。それはやがて彼ら自身や家族、仲間が困難な中にあるときの確かな力として育っていくのでしょう(映画の中では描かれないことですが)。けれどもいま必要とされるのは、そのような「規則正しい日常」「歴史ある学び舎」「愛すべき仲間たち」「それを見守る大人」を喪失したり、あるいは最初から持たないような環境の中で、それでもなお「上を向いて歩く」ということはどういうことか、それが問われているように思うのです。
そんな中、先日最終巻が発売になった岩岡ヒサエの「土星マンション」は、その問いへの答えを示しているように思いました。
土星マンション 7 (7) (IKKI COMIX)
土星マンション」は、地球全体が保護区域となり、地上35,000mに建設されたリング状の建造物で人間たちが暮らすようになった時代に、中学卒業と同時に窓拭きの仕事を始めた少年ミツの物語です。この作品の凄みは、リング状の建造物の中の社会が上層、中層、下層の三層の階層社会として描かれていることです。ミツが生活するのは当然下層で、窓拭きの職人たちもみな下層の住人なのですが、そこには暗さはなく、窓拭きの職業に誇りをもって暮らしています。窓拭きのお客はほとんど上層の住人で、窓の外から見えるその暮らしぶりは下層とはまったく異なる優雅なものですが、それを見て羨むようなことはなく、彼らはその窓をいかにきれいに拭くかにしのぎを削るのです。ときどき上層のお客がミツたち窓拭きをお客として招いて話をする場面があるのですが、そこにも一切の妬みや嫉妬のようなものはありません。もちろん、ミツの父親は窓拭きの最中に地上に落下し帰らぬひととなってますし(そこから物語は始まる)、宇宙船プロジェクトを進めていたニシマルは下層住人であるということで研究職を追われ、妊娠中の奥さんも下層住人であるという理由で中層の病院で見てもらうことができずに亡くなってしまう(それが層間の対立を煽ろうとした原因になっている)という冷たい現実も出てきます。しかし最終巻では、窓拭きの交流から生まれた上層の住人の協力もあり、少年ミツを地上に送り届けるという下層住人たちのプロジェクトは成功裡に終わります。階層社会の現実、層間の対立という難しい背景を持ちながらも、それでも少年が窓拭きとして成長を成し遂げていくという物語を描ききった作者に僕は拍手を送りたいです。
上を向いて歩こう。」というのなら、「土星マンション」こそ読まれる作品だと思います。オススメです。

「20歳のときに知っておきたかったこと-スタンフォード大学集中講義」(ティナ・シーリグ/阪急コミュニケーションズ)

20歳のときに知っておきたかったこと スタンフォード大学集中講義

「いま、手元に5ドルあります。2時間でできるだけ増やせと言われたら、みなさんはどうしますか?」で始まるこの本は、スタンフォード大学で教鞭を取るティナ・シーリグが、講演のためにまとめた内容を書き下ろしたもの。主に彼女の授業での課題とそれに取り組んだ学生たちの反応について、また「起業家精神」を体現する何人かの事例を紹介しながら、自分の能力を引き出すためのものの考え方について説いています。実際の起業のための指南というよりは、魅力ある生き方とは何か、という彼女の信念を書いた本、というのが妥当なところでしょう。

普段こういう本はあまり読まないほうなのだけど、たまたま図書館で予約を入れて順番が回ってきたので、これも何かの機会と思い読んでみました。読み進める途中、自分自身の過去の体験も含めて、思いのほか様々なことに思いを馳せることになったので、その中で2つほどを書き留めておきたいと思います。

ひとつは、これから社会に出ようとする学生には良きメンターが必要だということ。
この本を読みながら僕は学生時代にやっていたある活動のことを思い出していました。僕は学生時代、子どもを相手に人形劇や影絵劇を見せるサークルに入っていて、大学の長期休暇中に地方の小さな町の小学校を一週間ほどかけて回る公演旅行をしていました。まずだいたい一週間で回れる程度の規模の小学校を持つ町を洗い出した上で、その町の担当(だいたいは教育委員会)のひとに直接電話するという飛び込み営業さながらのことをやっていました。話を聞いてくれそうなところに対しては、こちらから改めて資料を送ってどういう活動をやるのかを具体的に説明するという流れです。
いまから思えば、どこの誰かもわからないような学生がいきなり電話をかけてきて、授業の時間をつぶして公演をさせろというのですから、よくもまぁ話を聞いてくれたものだと思います。当時、先方に説明するときに僕らが気にしていたのは、主には公演内容そのもので、演目はもちろんのこと誘導や進行までどのような感じでやるかを説明し、学校行事として子供たちの鑑賞に耐えうる公演であることを説明していました。
でもおそらく先方はそんなことは大きな問題としては捉えていなかったでしょう。この学生たちは本当に信頼に応える気持ちをもっているかどうか、重要なのはおそらくその一点だけだったでしょう。
これがわかったのは、自分が会社の採用面接の端っこに座って、実際に応募者に向き合ったときです。まさに立場を変えればなんとやら。もし自分が学生のとき、この本に出てくる授業のように、もう少し社会と自分のかかわりを考えるトレーニングを受けていたのであれば、またちがった見方で公演旅行を捉えることができたかもしれません。当時は候補地がきちんと決まって、それなりの予算で予定どおり公演ができることばかりを気にしていました。でも本当は、小学校以外のもっと別の場所で僕らのような存在を必要としてくれていた場所があったかもしれない。交渉する勘どころさえもっていれば、もう少し自由にやれたかなとも思いました(まさに後の祭りですが)。

もうひとつは、僕らは本質的に贈与の環の中で暮らしているということ。
このことは社会に出てからもしばしば忘れてしまうことですが、自己完結するよりも他人と築かれる贈与の環に強くコミットするほうが、はるかに自由で結果として得るものが大きいのです。ただ贈与の環それ自体は、自分がいてもいなくても回っていくものなので、ともすれば自分というものの存在が価値のないように思えることもあるかもしれません。でも結局のところ「君が落ち込んでも世界は何も変わらない(byミルカさん)」のであって、自分という閉じた範囲だけではなく、贈与の環を流れるものにきちんと目を向けられるかどうかが、楽しく生きるためには必要なのかなと思いました。

「フェイスブック 若き天才の野望」(デビッド・カークパトリック/日経BP社)

フェイスブック 若き天才の野望 (5億人をつなぐソーシャルネットワークはこう生まれた)

正月休み明けの北米出張の飛行機の中で、映画「ソーシャル・ネットワーク」を観ました。映画は映画として面白かったのですが、いったいどこまでが実話でどこが脚色だったのかを知りたくなって、ちょうど日本公開に合わせて出版されたこの本を読むことにしました。著者のザッカーバーグをはじめとする関係者に対する膨大な取材に基づく語り口は、多くの事実を含みながらも非常に刺激的で、映画同様にドラマのような面白さもあり、また個人的には多くの「発見」があった本になりました。

僕は 2 年ぐらい前から仕事上の成り行きでフェイスブックと関わることになったのですが、一緒に仕事をしてサービスをリリースした後でも、彼らのものの考え方(プリンシパルのようなもの)について実は何もわかっちゃいなかったんだと思い知らされました。

僕が個人的に印象に残ったのは以下の一節です。

ザッカーバーグは……フェイスブックが誰かのつくったニュースを追いかけるためのツールではないことに気づいた。フェイスブックはそれ自身の上で、ニュースをつくるためのツールだった。実は、ザッカーバーグはニュースフィードを常にそういう目で見ていた−大切なニュースのリアルな発信源であると。友達のニュースも、世界のニュースも。フェイスブックが2006年にニュースフィードを世に出すずっと前に、ザッカーバーグは正確にどうすればアップデートが本物にニュースになるのかを几帳面に手帳に書き記していた。ニュースフィード「記事」のスタイルシートや文法規則までつくる周到さだった。(p.429)

フェイスブックでは、ユーザインタフェースの根幹をなすニュースフィードに、アプリケーションが記事(ストーリー)を投稿する際に守るべきガイドラインがあります。

Stream Stories - Platform Policies

記事(ストーリー)はいくつかの項目(フィールド)から構成されています。項目(フィールド)は、messasge, picture, link, name, caption, icon, actions などがあり、それぞれ何を入れるべきかが細かく決まっています。

特にアプリケーション自身が自動的に生成する文言を入れるフィールドと、ユーザ自身が入力すべきフィールドは明確に分けられています。アプリケーションが message フィールドに自動生成のメッセージを入れることは禁止されています。またアプリケーション自身がストーリーを投稿する際に、可能な限りユーザが自身の言葉でコメントを添えられるように(つまり message にユーザのコメントが入るように)投稿インタフェースを構成することを要求されます。さらにストーリーを構成するフィールドには「Call to action」という相手に対して何か行動を促すような文言を入れることも禁止されています(actions に入れなくてはいけない)。そしてこれらはフェイスブック上のインタフェースにフェイスブックが決めたように表示されます(投稿側でレイアウトや装飾の指定はできない)。

仕事をしていく中で、彼らはことあるごとにストーリーの内容について、あるいはその投稿のインタフェースについて、事細かにフィードバックを返してきました。時として細かすぎると思えるぐらいにです。

どうしてそこまで細かいことにこだわるのか。僕自身もフェイスブックのユーザで、当時は「Mafia Wars」や「Cafe World」のストーリーがウォールを埋め尽くすのにうんざりしていたので、ニュースフィードをより意味のある読みやすいものにするという意図に基づいたものだとは理解していました。

でもほんとはそんな受け身な話ではなかったのです。

最初からフェイスブックに投稿される記事(ストーリー)は、そのままメディアが作る「記事」と同じレベルになるように設計されていた、ということだったのです。そう考えるのであれば、どれも当然配慮されるべきことばかりでした。「記事」は広告ではないし、そのひとの意思が入ることで、唯一性が生じ、その「記事」の価値が高まるからです。

当たり前のことなのですが、この本を読んでようやく腑に落ちました。

「Cut」9月号「ジブリがアリエッティに託したもの」

Cut (カット) 2010年 09月号 [雑誌]

遅ればせながら「Cut」9月号のアリエッティの特集記事を読んだ。

最初の宮崎駿へのインタビューを読んで「ああ、やっぱり宮さんはうれしかったんだな」と直感的に思った。NHK「ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日」という番組で、初号試写のあとに宮さんが米林監督の手を取って称えたのをみて「これは」と思っていたのけど、それがこの記事を読んで確信に変わった。
「Cut」では昔から何度となく宮崎駿へのインタビュー記事(しかも長文の)が載っているが、決して専門雑誌ではないのにもかかわらずいつも核心に迫る内容で楽しませてくれる。それはひとえにインタビュアーの渋谷陽一のなせる業であると思うのだが、今回も軽快な突っ込みがありつつも決して本質を外さない記事は非常に面白かった。
ただ今回の記事でいつもと違うのは、2万字インタビューと書かれているのだけど、実際のところは要するに宮さんも渋谷さんも待ち望んだ新しいジブリに出会えたことにひたすら賛辞を送っている、それだけが延々と語られているということ。多少の編集が入っていることを差し引いても、こんなに前向きな話ぶりはここしばらくはなかったのではないかと思う。

僕は前作「崖の上のポニョ」についてどう捉えるべきか、いまだに落ち着くところを見つけられずにいる。それは誤解を恐れずに言えば、後ろに見え隠れする宮崎駿の恐ろしい負のエネルギーを感じてしまうからなのだ。本当に僕はあのままの路線でジブリが進んだとしたら、それがどんなに素晴らしい作品であったとしても、とてもついていけないと思っていただろう。
今回「借り暮らしのアリエッティ」という作品の中でも、その片鱗は随所に見て取れた。そもそも二人の主人公が滅び行く小人の種族の少女と重い病を患う少年という設定。しかも舞台となるのは下界からそこだけ取り残されたような古いお屋敷。住んでいるのは老婦人と年老いたお手伝いさんというから救いようがない。いくら花に彩られた庭があり、心地よい風が吹こうとも、死の影が通奏低音のように響いている。
そんな中で繰り広げられる恋愛譚に、宮さんだったらどんな結末を用意していたか。もちろん脚本を書いたのは宮さんだから、話としては同じところに着地したかもしれないのだけど、見せ方や観終わったあとの印象はずいぶん違ったものになっていたのではないかと想像される。

僕が「アリエッティ」を観てうれしかったのは、死の影の通奏低音はそれはそれでありつつも、二人が出会いを通じて変えたのは結局のところ彼ら自身だったというところ。これはぼくはとても今日的だと思った。
彼らにとっても、今日を生きる僕らにとって滅びは既に生活の一部になっている、という言い方をするとちょっと格好良すぎだけど、多くのひとが世紀末的思想ではない明るくない未来についての実際的な予感を持っているのは事実だと思う。それに対してニヒリズム的になるか、世界を革命するか、自分が変わるかみたいなところを突きつけられて状況なのだが、実際に取れる方法論は残念ながら最後のひとつしかないのだと思う。前者二つはまだ滅びが実際の予感として感じられる前の幻影みたいなもので。
アリエッティ」で言うと、たぶんあの屋敷に残るってのがニヒリズムで、屋敷をぶっ壊すというのが世界の革命で、屋敷を出て行くというのが自分が変わることなのだと思う。そしてそれがすれすれの恋愛譚で構成されるところの美しさ。後の米林監督へのインタビューで少女漫画の話が出てきて、なるほどなぁと思ったのだけど、「美しいものを美しく」という切り取り方でストンと落としている。笑いがあったりスペクタクルやカタルシスがあるわけではないのだけど、確かに心に響くものがありました。

米林監督って同い年なんですよね。新海さんも、柳沼さんも、やっぱりなんか同世代ってものすごく波長が合う感じがして、それは勝手な思い込みかもしれないけど、とても好きです。