「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」(NHKスペシャル取材班・新潮社)「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より」(半藤 一利、 澤地 久枝、戸高 一成・岩波書店)

日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦日本海軍はなぜ過ったか――海軍反省会四〇〇時間の証言より

出張のフライトの行き帰りで「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より」を読了。ちょうど前回の読書日記で触れた渡辺清氏の著書「海の城」「戦艦武蔵の最期」を読んで日本海軍関係の本をもう少し読んでみたいと思っていたところ、昔NHKスペシャル海軍反省会に関する番組を見たことを思い出し、関連本で出ているなら読んでみたいと図書館から借りてきました。(ちなみにNHKスペシャルの感想はこちら。)

日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」は、同タイトルのNHKスペシャルの取材班が書いたものですが、いわゆる番組内容の書籍化ではなく、番組を作成するにあたっての取材・制作過程およびその後のドキュメンタリーになっていて、番組を見たひとにも改めて一段深い情報を提供する内容だったのがとてもよかったです。海軍関係者への取材を通じて、海軍関係者が胸に抱く怒り、戸惑い、葛藤を取材班自身がもう一度なぞる形で番組として結実していく過程は、出来上がった番組以上に惹かれるものがありました。
もう一冊「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より」は、放映後の反響を受け、今後につなぐ形での議論を半藤一利澤地久枝戸高一成の三氏の鼎談という形でまとめたものでした。特に半藤氏や澤地氏はそれぞれ固有の戦争体験があり、その実体験を踏まえて海軍反省会という題材を前にしたとき、改めて歴史を受け継ぐとはどういうことかについてお二人が思いを巡らしているのが印象に残りました。

日本海軍がどうであったかというのは、半藤氏の「海軍は幹部が二千人ほどの会社である、そういう規模の会社だと思えばいいんですよ。」という発言で、ほぼ了承できてしまうと思います。番組のタイトルにある「海軍あって国家なし」「やましき沈黙」「第二の戦争(戦犯裁判)」は、いずれも会社組織であったとすれば、さして特別なことではないはずです。NHKスペシャルではそれを今もなお巣くう自分たち自身の問題として語りかけるスタンスをとっていました。ただ僕がこれに加えて思うことは、いま日本という国全体が「会社化」していて、決して当時反響があった組織に属して働いている30代40代のサラリーマンが主に直面する問題なのではなく、もっと幅広い階層のありとあらゆる場面で起きつつあることだと思うのです。この「会社化」のロジックについては、僕はまだ理解をし得てないのですが、行く行くは今後の読書の大きなテーマになるような気がしています。

「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー/岩波書店)「砕かれた神 ある復員兵の手記」(渡辺清・岩波書店)

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人砕かれた神―ある復員兵の手記 (岩波現代文庫)

まだまだ読むべき本はたくさんある。そうして旅を続ければ出会うべき本には出会うことができる。

ジョン・ダワー氏の大著「敗北を抱きしめて」は、僕にまた新しい刺激をもたらすものでした。またこの本で引用されていた渡辺清氏による「砕かれた神」も素晴らしかった。元海軍兵卒である彼の天皇に対する対峙の仕方も然ることながら、その豊かな筆致で書かれた農村の生活に魅了されました。彼が様々な本を読みながらその世界を広げて行く様は、何よりの救いのように感じたのです。おそらく彼のようなひとは特別ではない。しかし結果として続いてきた戦後日本の歩みのギャップに慄然とせざるを得ない。

日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義という目標も今や捨て去られようとしている。敗北の教訓と遺産は多く、また多様である。そしてそれらの終焉はまだ視界に入ってはいない。(「敗北を抱きしめて(下)」エピローグより)

日本国憲法第9条とは何なのかを自分の頭で考えたい。2007年から少しずつ続けてきた旅はまだ道半ばです。

「『国家主権』という思想」(篠田英朗・勁草書房)

「国家主権」という思想―国際立憲主義への軌跡

集団的自衛権。いま安倍政権がやろうとしている真の意図は何なのか。それはアメリカ、アジア諸国をはじめ、国際関係にどう影響するのか。表層的な議論を鵜呑みにするのではなく自分の頭で考えたい。と思っていたところ、2014年6月1日付朝日新聞朝刊の「ニュースの本棚」という欄で、篠田英朗(東京外国語大教授(国際関係論))というひと書いた「集団的自衛権国際法」という寄稿に出会いました。

第三国が集団的自衛権を発動するにあたっては、攻撃された国を支援することが第一であり、次に発動が必要性と均衡性の範囲内にあることが要件になる。もちろん政策論として、支援する国の関心がかかわるのが当然である。しかし国際法上は支援国の国益は、集団的自衛権を支える論点にはならない。
「日本国民を助けるために米国に協力する」という議論は、集団的自衛権の正当化としては、本来副次的なものでしかない。

ですよねー。ちなみにこの記事を読む前に安保法制懇の報告書も読んでみたのですが、僕が気になったのは以下の部分

集団的自衛権を実際に行使するには、事前又は事後の国会承認を必要とすべきである。行使については、内閣総理大臣の主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきであり、内閣として閣議決定により意思決定する必要があるが、集団的自衛権は権利であって義務ではないため、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然である。

「集団的自衛権は権利であって義務ではない」、つまり日本がイヤと思えば集団的自衛権を行使しない、対象国を助けに行かないということなのですが、そんなことを言っている国と集団的自衛権に基づいた相互役務を含む取り決めを結ぶわけないので、実際には「政策的判断」に「支援国の国益」が含まれる場合ばかりではないのでは、と思いました。そこへ件の記事を読んだものですから、ああやっぱり自分の疑問はヘンじゃなかった、と腑に落ちたわけです。

で、ここからが本題。ならばもっと理解を深めるためにまずは篠田英朗氏の著作を読んでみようと、最近の代表的な著作「『国家主権』という思想」を読んでみました。が、これが中身はほとんど論文に近くて、通勤の行き帰りに読むのは本当に骨が折れました。後半はやや挫折。この本で初めて「国際関係学」って学問分野が何をしているのかに触れた(笑)というひとにとっては荷が重かったです。

ただ今回の一件でよく言われる「『立憲主義』への挑戦」とはどういうことなのか、多少なりとも理解できたように思います。また日本国憲法の三大原則のひとつである「国民主権」について、その言葉自体は小学生でも習うことですが、「主権」(sovereignty)とは一体何であるかについては、その後の教育でもあまり深くは触れられてなくてちょっと残念だと思いました。「立憲主義」的に考えれば、国民投票法も非常に危うい存在。究極的に人は信用ならないものである、法律の方がまだマシという考えは、過去の歴史を振り返ればあながち間違っちゃいない歴史的教訓なわけで。勉強になりました。

「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史: 3 帝国の緩やかな黄昏

どうしてこの本を読もうと思ったのか、自分でもよくわからない。

ここ 2, 3 年、以前よりもずっとクロースにUSのひとたちと仕事をするようになり、仕事上の価値観が共有されていく一方で、仕事以外の普段の暮らしの差異が気になるようになってきた。出張の帰りの飛行機の窓からやがて着陸する日本の町を眺めるたびに、そのことを実感させられる。「ああ、あそことは違う国に帰ってきた」と。ただ僕はUSで暮らしたことがないので、その実感(憧れというべきか)はおそらく事実とはかけ離れた妄想であることは否めない。まがりなりにもUSマーケットの売り上げで食べさせてもらっている身としては、せめてその妄想を少しでも地に足がついたものになるよう、免罪符のようなものとしてこの本を読んだんだと思う。

この本の内容をやや乱暴に一言でまとめるとすると、アメリカ大統領制には光と影があって、そんなにうまくいっていないこと、そして日本人が「戦後」と称している第2次世界大戦後の世界は、20世紀が始まった100年前、つまり「戦前」とそんなに変わらない、ということになるだろうか。
日本の政治家、ひいては内閣総理大臣が相当の人材難であろうことは、近年の変わり方を見れば一目瞭然なのだけど、世界の政治のトップともいうべきアメリカ大統領だって、たいして恵まれているわけはなさそうである。しかも下手に権限がある分、うまくいかない時の悩みだって相当のものだ。日本でも政治の停滞を解消すべく、首相にアメリカの大統領なみの権限を持たせるべきというような主張があるけども、アメリカの例を考えると、最悪首相がトンデモないやつだったとしても国としてクラッシュしないような仕組みにしておく方が、国の仕組みとしてはよっぽどロバストであると思う。

アルゴ [DVD]

この本を読んだあと、気になってイランのアメリカ大使館人質事件を題材にした映画「アルゴ」を観なおしてみたのだけど、読む前と読んだあとでは全くと言っていいほど印象が変わってしまった。もちろんカナダ大使館に身を寄せた6人の悲劇性には映画のストーリーとしては一定の説得力を持つのだけども、史実としてそれまでイランに対してアメリカがしてきたことを天秤にかけられるのであれば、そこに全く同情の余地はないと思えるのだった。その一方で、映画中盤、CIAの兄ちゃんとその6人が映画クルーを装ってバザールにロケハンに出かけたとき、アメリカの武器で息子を殺されたと主張する店の亭主が叫ぶあの想いは、映画のなかでは全く救われない。まぁよくこういうものを臆面もなく映画にしてしまうよな、と若干あきれる気がする。唯一の救いは、主人公が家に持ち帰った偽映画「ARGO」のストーリーボードが、父が息子を助ける場面が描かれたものだったこと。それが、主人公本人の救われなさ(家族と離れ、彼が命をかけて手がけた救出劇は帰国後に闇に葬られた)と、あのバザールの亭主の救われなさをせめてつなぎ止めるものだった、と勝手に妄想するよりほかない。

オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」は3巻セットの長丁場だけど、ベトナム戦争が終わる2巻ぐらいまでは面白かったので、そこまではオススメです。

「風立ちぬ」感想

風立ちぬ (ジス・イズ・アニメーション)
不思議な映画だった。どう贔屓目にみても話の流れは複雑で、ある程度の歴史や時代背景が頭に入っていないとそれが意味するところを理解できないし、カタルシスも控えめに表現されていて、ハッピーエンドでもなければ、悲劇が描かれているわけでもない。2時間20分に収められた内容は膨大で、悪く言えばまとまりがないようにも思われる。観ている間ずっと、どうにもならない重石に縛り付けられているようにも感じた。あの時代に生きたひとは大なり小なりそういうものを抱えていたのだろうし、いまこの時代でも実はあまり変わらないといえばそれまでなのだけど。それでも。それでも。日本の田園風景や菜穂子の花嫁姿や空を舞う九試単戦の美しさは微塵も曇ることがないのだと、そういうことを描きたいがための映画だったのだろうか。それってえらい贅沢な話なように思うけど。
個人的には療養所を抜け出して名古屋に出てきた菜穂子を、黒川夫妻がきちんと迎え入れるところがとてもよかった。現実にはああいう流れになるのか少し不思議に思うけど、緊張の続く映画の流れで少しほっとできる瞬間だった。どんな事情であれ、祝い事はちゃんと祝い事として祝いましょうという、ごくごく当たり前のことだけど、堅苦しいと敬遠される慣習というものが存在する価値をよく表現していたと思う。
ものすごい勢いでコンテンツが消費されていく今にあって、「風立ちぬ」は少し意図とは異なる評価のされ方をするように思う。それは僕がこの作品を漫画のままの小品として留めておいて欲しかった理由なのだけども、願わくはゆっくりとこの作品が消化されていって、未来のどこか、小さな映画館でひっそりと見られたらいいなと思う。たぶん10年後に観ても、20年後に観ても、同じように思いを馳せることができることができるはずだから。

「氷菓」「遠まわりする雛」(米澤穂信・角川書店)

氷菓 (角川文庫)遠まわりする雛 (角川文庫)
誰もが思うであろうその不可思議なタイトルが気になっていたものの、京アニ制作というだけで「いつものあれか」とスルーしていた、その作品。小説にはまって結局アニメを見る羽目になり、気が付いたら Blu-ray をお買い上げ。作品への評価については、遅れてきたファンとして語るべきものは何もないのだけど、僕にとってこの作品の評価を決定付けたのは「遠まわりする雛」の表題作に出てくる千反田のこの言葉だった。

「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々もだんだん老い疲れてきています。山々は整然と植林されていますが、商品価値としてはどうでしょう?わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思いません。でも……折木さんに、紹介したかったんです」(「遠まわりする雛」より)

僕は地元の京都に残っていればするべき仕事があったのだけど、それを早々に捨てて、結局今でも帰らないでいる。それで良かったのかどうなのかなんて、今となっては考えることに意味はないのだけど、それでも千反田と同じぐらいの覚悟があったのなら、また違った自分を作ることができたのかもしれないと、やっぱり考えずにいられなかった。いまの仕事は大変だけど、もちろんそれに見合うだけの世界を僕にくれていると思う。それは京都に留まっていたら成し得なかったことだとも思う。でもこの言葉にふれて、結局は覚悟ひとつのことで、残念ながら20年前の僕はそこに到達できていなかっただけなのだと、自分を恥ずかしく思い、そして彼女を意味もなくうらやましく思った。
加えて、生まれた場所から離れない覚悟は、それが望むと望まざるとに関わらず、この激動の時代にあってずっと重要な意味を持ってくる、大切なことになるという、はっきりとした予感がある。
だから彼女が何を考え、どう行動するのか。もちろんぼとんどは小説には書かれることはないのだろうけど、これからもずっと見ていたいと思う。

育ちゆく子に贈る詩

先日の土曜日、月2回の小さなシュタイナー学校「森の学校」の卒業式がありました。
「森の学校」は3年課程なので、小学3年生で卒業です。シュタイナー学校では、毎年担任の先生が通信簿として子どもたちに詩を贈ります。卒業にあたって3年生に贈られた詩は、これから先のその子の道しるべとなるような内容で、とても心を打たれました。
上の子がもらった詩はこんなものでした。

太陽のようでありなさい
大地のようでありなさい
天と地の調和のとれたところにこそ
進むべき道があるのです
優しさと温もりと強さをあわせ持ち
新しい世界を創造するちからとなれ

以前読んだ育ちゆく子に贈る詩(うた)―シュタイナー教育実践ノートというシュタイナー学校の活動記録の本でも、同じように詩の話が出てくるのですが、その時僕は「親・親戚以外の第3者の大人から言葉を贈られるというのはいい体験になりうると思うし、自分の子どももそういう大人と出会って欲しいと思います。」という感想を残しています。

しかし実際に自分の子どもが詩を贈られるに至り、詩の持つ意味はもっと根源的なものだったのだと気づかされました。
なぜシュタイナー学校は担任が持ち上がりで、毎年子どもたちに詩を贈るのか。
子どもたちの自我のスイッチを入れる、これが教育の本質なのだと。
3年間ともに学んだ先生からの言葉というのは、たぶん本人にとって親よりも重いものでしょう。初めて鏡で自分のかたちを見せられたような、そんな感覚になるのではないかと思います。
ともあれ、とても心に残ったひとときでした。