2015 SNOW MIKU Live 備忘録


このエントリはSNOW MIKU Live 2015に参加してみて、

  1. 冬に
  2. 遠方にある
  3. オールスタンディングの
  4. ミクさんのライブ

に参加するとはどういうことか、備忘録的に書き記すものです。
僕自身はミクさんのライブはまだ2回目で、まだまだビギナーで大した経験はないのですが、今回のライブ参加にあたってかなーりアレコレ考えたので、今後同じようなミクさんライブが開催されたときに初めて参加するひとの助けになればと思います。

荷物どうするの?
今回一番勝手がわからなかったのはオールスタンディング。コンサート自体はアレコレ参加してきましたが、オールスタンディングのライブは初でした。
一番悩んだのは荷物問題。
オールスタンディングということは座席に荷物を置くってわけにいかないので、基本的に荷物は全部身につけるか会場のロッカーに押し込むしかないのです。Zepp Sapporoウェブサイトやらアレコレ調べても全員分ロッカーが用意されているわけではなさそう。基本的には手ぶらで入れればベストなのですが、上着はどうしても荷物になる。さすがに北海道の冬場でTシャツ1枚で開場待ちとかありえないので、いったいどうすれば?的な感じでした。
考えた対策としては3つ。

  • 会場の近くに宿を取る。これで大きな荷物は全部預けられるか部屋に放り込めるはず。
  • 腰に付けられるバックを持っていって、最悪ロッカーが空いてない場合はその中に上着を押し込められるようにする。
  • それでも荷物は最小限にしてなるべく身軽な格好で並ぶ。

結果的にはどれもやってよかったです。

宿はZepp Sapporoから徒歩圏(というか至近)のホテルを探しました。一番近い(ほぼ隣)なのが札幌エクセルホテル東急ですが、今回はその通り向かいのチサングランド札幌に泊まりました。
ライブ会場でも一部グッズ販売をしているとのことだったので、1回目の昼公演開場よりちょっと早めに会場到着して事前グッズ販売に並びました。幸い列は大したことはなくて10分もかからずお目当てを回収し、そのまま荷物を持って歩いてホテルへ。ロビーで荷物整理して公演モードにスイッチして要らない荷物をフロントに預け、そのまま会場の待機列へ並ぶことができました。グッズで売っているショッピングバックはかなりでかいので、ライブ会場のロッカーには収まりません。その意味でも会場から徒歩圏に宿があるのは理想です。昼公演と夜公演の間に休めたりもしますしね。

さて会場内のロッカー問題ですが、結果としてZepp Sapporoの場合においては会場内のロッカーは全部埋まらないように思いました。もちろん整理番号が若くて早めに入場できる場合はまず心配いらないと思いますが、後のほうでも結構大丈夫でした。というのも、整理番号が若いひとはガチで前列を取りに行くので、結果的にロッカーには目もくれずフロアにいくと思われ、僕は整理番号がかなりオシマイのほうだった(Bから始まる整理番号)にも関わらず空いてました。
ただロッカーはかなり小さく、小さなカバンかリュックサックがやっと入るぐらいの大きさで、コートだとたたんで入れるだけでいっぱいになってしまうと思います。キャリーとかは論外。大きな荷物はやはり会場外のコインロッカーなどに入れるしかないです。実際ショッピングバッグとかキャリーを会場に持ち込んでるひとは多く見かけました(ちょっと邪魔....)。会場近辺はZeppSapporo以外だと中島公園駅改札前に少しコインロッカーがあるぐらいなので、荷物を持って現地にくるともう会場に持って入るしかなくなるので注意です。
ロッカーを使う場合の注意としては、動線として「入場→ロッカーに荷物預ける→フロア」という感じになるので、後の整理番号のひとがその間もどんどんフロアに入っていきます。本当にいい場所を取りたかったらロッカーは諦めるしかありません。今回は1回目昼公演はロッカーを使いましたが、2回目夜公演は明らかにひとが多い感じだったのでロッカーはパスして、腰に付けたバッグに上着を押し込みました。基本的にはそんなにあわてなくても、荷物は全部身につけられる身軽さがあればそこそこの場所には行けるので、とにかく荷物は少なくを心がけましょう。

整列から入場まで

オールスタンディングの場合、チケットに書かれているのは整理番号だけです。今回のZeppSapporoの場合、整理番号はAから始まるものとBから始まるものの2種類あり、A1〜→B1〜の順で入場します。開場近くなると基本的に整理番号順に列を作ってならびます。Aの若い番号から順に会場横に列を作りますが、Aの後ろの番号とBは会場近くの川沿いの道に列を作ります。入り口に列の待機場所が掲示されるので自分の整理番号を見てどの列に並べばいいかを確認しましょう。
今回は列形成に関してコンサートスタッフからほとんど指示がなかったので、結果として並んでいるひと同士で番号を教え合って自分の並ぶ場所を見つける状態...。会場入り口でも番号呼び出しなく並んだ列のまま入場だったのですが、たまたま今回がそうだっただけなのかもしれません。ともかく開場時間がくると整理番号順に入場が始まるので、特に整理番号が前の方のチケットが手に入った場合は開場時間までには会場に来ないと、せっかく早く入れるのがもったいない!ということになります。
さていよいよ入場。チケットを切るところでとドリンク代500円を払います。お釣りもくれますが、後ろで待っているひとのことも考えて小銭を用意しておく方がいいでしょう。このときにドリンク引き換え用のコインをくれます。ドリンク(ペットボトルです)は終演後も引き換えられるので、オススメは公演中の水分補給用のドリンクはあらかじめ買っておいて、引き換えは終演後にするとドリンク引き換えの列をパスできます。ドリンクと一緒にドリンクホルダー(ペットボトルを腰から下げられるもの)をくれるので、持っていない場合は先にもらうといいかもです。
ここでロッカーを使う場合はロッカー室へ。ロッカーで100円玉がいるのでその用意も忘れずに。あとトイレも済ませましょう。一度フロアに入ると終演まで出られないと思った方がいいです。準備ができたらいざフロアへ!

どこで見る?
今回は参加した2公演ともに整理番号Bから始まるチケットだったので、フロア左手の扉から中に入るともうすでにぎっしりという感じでお客さんが立っていました。さぁどうする?このままだと壁際から見ることになってしまう!僕はマジカルミライ2014のスタンド席でミクさんを横からみることになりかなり悲しい思いをした(いかにもスクリーンに映してます風に見えた)ので、正面から見られる場所に移動すべくひとの隙間でかき分けられそうなところを探しました。
さすがに舞台に近い方はどこから入るの?って感じだったので、フロアの真ん中からやや後方で中に向かって通れそうな場所を探しました。結構床に荷物を置いているひとが多く、その荷物で出来た隙間から荷物をまたぐ形で中へ。しばらく進んでこの辺で止まっても大丈夫かな?という場所を確保。結果的に1公演目はほぼ真ん中PA席の前あたり、2公演目は昼公演よりも前方のこれもほぼ正面に行くことができました。やっぱり正面はいい!存在感が圧倒的です。個人的には舞台近くで斜めから見るよりは、やや後ろでも正面から見たほうが「そこにいるミクさん」を感じられるのでは!と思います。荷物が少なければ少ないほど身軽に入れて場所も見つけやすいので、整理番号が後ろでも諦めることなく場所探しをしましょう。
スタンディングの場合に避けられないのが、前に背の高いひとがいると見えない問題。僕は身長165cmで決して背の高いほうではないので、前方になるべく背の高いひとがいるところを避けつつ場所取り。おかげでなんとか「時々隠れるのはしょうがないかな」ぐらいの感じでは見ることができましした。もちろん腰から下はほぼ見えないですけどね。オールスタンディングだと後から後から人が入ってきて詰められちゃうので、一旦「ここがいいかも!」と思って確保した場所でも、前に背の高いひとが入ってきて「うわーん」ってなっちゃう難しさはあります。やっぱりお顔も見られないっていうのは悲しいものがありますよね...。Zepp Sapporoは後方のPA席の両端だけが床が少し高くなっているだけで、あとは完全にフラット。スロープや段差をつけると逆に危ないという事情も理解はできるんですけどね。「秘密警察」でミクさんが台の上に登って歌う演出のところは足までしっかりと見えたので、ずっと台の上で歌ってくれればよかったのかも...。

公演回で雰囲気が違うんです
今回のライブは2日間昼夜の計4公演行われて、僕は1日目の昼夜の2公演に参加しました。昨年のマジカルミライ2014東京公演がミクさんライブ初参加で、そのときは昼公演に参加したのですが、参加している年齢層が全体的に低い(未成年の方も多かったと思います)ので、BDで見ていたようなコンサートと比べておとなしめな印象を受けました。後から話を聞くと夜公演はそうでもなかったようで、これは是非とも夜公演に行かねば!ということで、まずは夜公演のチケットを確保を目指しました。夜公演は1日目、2日目とあり、なんとなく2日目の最終公演のほうが盛り上がるのではという気がしたのですが、コンサートが終わってからでは東京行きの飛行機に間に合わないので、1日目を選択。結果的に多くのひとが同じ状況だったと思われ、1日目(3/7)夜のチケットは最終的に売り切れてました。で、どうせ行くならもう1公演見たいよねってことで、1日目夜の本命に備える偵察の意味も込めて、前哨戦として1日目昼のチケットも確保しました。結果的にこの2公演に参加したことで、各公演回の雰囲気の違いのようなものがわかりとても面白かったです。
まずは昼公演。この回は今回のライブの初回公演にあたります。この初回公演の面白いところは、お客さんの誰もセットリストを知らないところです。曲が終わるたびに「次は何の曲かな〜」というワクワク感があり、お気に入りの曲が来た時の盛り上がりは他の回にはない独特の雰囲気がありました。特に今回のコンサートは、アンコールで雪ミク2015のコロボックル衣装を身にまとったミクさんの登場からの新曲「Snow Fairy Story」お披露目、そしてダブルアンコールのDX7弾き語りによる「星のカケラ」と、最後のサプライズ2連続でとても満足感が高かったです。2回目以降は当然連続参加しているひとはセットリストがわかっているある意味「ネタバレ」状態なので、どうしても驚きの感じは薄れます。なので初回公演は絶対のオススメです!また昼公演は当日券が出ていたぐらいで、夜公演ほどのぎゅうぎゅう感はなく見やすかったので、落ち着いてみるには昼公演、という選択は悪くないと思います。
そして夜公演。やはり本命回なだけあって、待機列からみんなワイワイがやがや。公演開始前もスクリーンに映し出される映像に合わせて「ロート製薬大合唱」「サンキュッコール」「おひめさまコール」とミクさんラヴオーラ全開。公演中も昼公演に比べて一体感が半端なく、いつまでも続いて欲しい、正に夢の時間でした。
オールスタンディングで1日2公演連続参加は正直体力が持つかどうかちょっと心配してたのですが、案ずるより産むが易し。2回目の夜公演では、セットリストがわかっているので、曲目によってペンライトを振るのを控えめにしてじっくり聴くようなこともやってみました。「ロミオとシンデレラ」で涙がこぼれたのは自分でも意外でした。すごく思い入れがある曲ってわけでもないのに、じっと聞いているだけで涙が出るんです。もちろんペンライトを振るのもそれはそれで醍醐味なのですけど、楽しみ方はいろいろです。時間と財布に余裕があれば是非複数回公演に参加することをオススメします。いつもとちがう楽しみがきっと見つかるはずです。

終わりに
ずいぶん長々と書いてきてしまいましたが、この長さがある意味今回のライブの体験の濃さそのものなのです。百聞は一見にしかず。幸か不幸かミクさんファンになった方は、一度はライブへ足を運んでみてください。忘れられない時間が待っています。次は是非コンサート会場でお会いしましょう!

初音ミク公式ブログ http://blog.piapro.net/

「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」(NHKスペシャル取材班・新潮社)「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より」(半藤 一利、 澤地 久枝、戸高 一成・岩波書店)

日本海軍400時間の証言―軍令部・参謀たちが語った敗戦日本海軍はなぜ過ったか――海軍反省会四〇〇時間の証言より

出張のフライトの行き帰りで「日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より」を読了。ちょうど前回の読書日記で触れた渡辺清氏の著書「海の城」「戦艦武蔵の最期」を読んで日本海軍関係の本をもう少し読んでみたいと思っていたところ、昔NHKスペシャル海軍反省会に関する番組を見たことを思い出し、関連本で出ているなら読んでみたいと図書館から借りてきました。(ちなみにNHKスペシャルの感想はこちら。)

日本海軍400時間の証言 軍令部・参謀たちが語った敗戦」は、同タイトルのNHKスペシャルの取材班が書いたものですが、いわゆる番組内容の書籍化ではなく、番組を作成するにあたっての取材・制作過程およびその後のドキュメンタリーになっていて、番組を見たひとにも改めて一段深い情報を提供する内容だったのがとてもよかったです。海軍関係者への取材を通じて、海軍関係者が胸に抱く怒り、戸惑い、葛藤を取材班自身がもう一度なぞる形で番組として結実していく過程は、出来上がった番組以上に惹かれるものがありました。
もう一冊「日本海軍はなぜ過ったか 海軍反省会四〇〇時間の証言より」は、放映後の反響を受け、今後につなぐ形での議論を半藤一利澤地久枝戸高一成の三氏の鼎談という形でまとめたものでした。特に半藤氏や澤地氏はそれぞれ固有の戦争体験があり、その実体験を踏まえて海軍反省会という題材を前にしたとき、改めて歴史を受け継ぐとはどういうことかについてお二人が思いを巡らしているのが印象に残りました。

日本海軍がどうであったかというのは、半藤氏の「海軍は幹部が二千人ほどの会社である、そういう規模の会社だと思えばいいんですよ。」という発言で、ほぼ了承できてしまうと思います。番組のタイトルにある「海軍あって国家なし」「やましき沈黙」「第二の戦争(戦犯裁判)」は、いずれも会社組織であったとすれば、さして特別なことではないはずです。NHKスペシャルではそれを今もなお巣くう自分たち自身の問題として語りかけるスタンスをとっていました。ただ僕がこれに加えて思うことは、いま日本という国全体が「会社化」していて、決して当時反響があった組織に属して働いている30代40代のサラリーマンが主に直面する問題なのではなく、もっと幅広い階層のありとあらゆる場面で起きつつあることだと思うのです。この「会社化」のロジックについては、僕はまだ理解をし得てないのですが、行く行くは今後の読書の大きなテーマになるような気がしています。

「敗北を抱きしめて」(ジョン・ダワー/岩波書店)「砕かれた神 ある復員兵の手記」(渡辺清・岩波書店)

敗北を抱きしめて 上 増補版―第二次大戦後の日本人敗北を抱きしめて 下 増補版―第二次大戦後の日本人砕かれた神―ある復員兵の手記 (岩波現代文庫)

まだまだ読むべき本はたくさんある。そうして旅を続ければ出会うべき本には出会うことができる。

ジョン・ダワー氏の大著「敗北を抱きしめて」は、僕にまた新しい刺激をもたらすものでした。またこの本で引用されていた渡辺清氏による「砕かれた神」も素晴らしかった。元海軍兵卒である彼の天皇に対する対峙の仕方も然ることながら、その豊かな筆致で書かれた農村の生活に魅了されました。彼が様々な本を読みながらその世界を広げて行く様は、何よりの救いのように感じたのです。おそらく彼のようなひとは特別ではない。しかし結果として続いてきた戦後日本の歩みのギャップに慄然とせざるを得ない。

日本の戦後システムのうち、当然崩壊すべくして崩壊しつつある部分とともに、非軍事化と民主主義という目標も今や捨て去られようとしている。敗北の教訓と遺産は多く、また多様である。そしてそれらの終焉はまだ視界に入ってはいない。(「敗北を抱きしめて(下)」エピローグより)

日本国憲法第9条とは何なのかを自分の頭で考えたい。2007年から少しずつ続けてきた旅はまだ道半ばです。

「『国家主権』という思想」(篠田英朗・勁草書房)

「国家主権」という思想―国際立憲主義への軌跡

集団的自衛権。いま安倍政権がやろうとしている真の意図は何なのか。それはアメリカ、アジア諸国をはじめ、国際関係にどう影響するのか。表層的な議論を鵜呑みにするのではなく自分の頭で考えたい。と思っていたところ、2014年6月1日付朝日新聞朝刊の「ニュースの本棚」という欄で、篠田英朗(東京外国語大教授(国際関係論))というひと書いた「集団的自衛権国際法」という寄稿に出会いました。

第三国が集団的自衛権を発動するにあたっては、攻撃された国を支援することが第一であり、次に発動が必要性と均衡性の範囲内にあることが要件になる。もちろん政策論として、支援する国の関心がかかわるのが当然である。しかし国際法上は支援国の国益は、集団的自衛権を支える論点にはならない。
「日本国民を助けるために米国に協力する」という議論は、集団的自衛権の正当化としては、本来副次的なものでしかない。

ですよねー。ちなみにこの記事を読む前に安保法制懇の報告書も読んでみたのですが、僕が気になったのは以下の部分

集団的自衛権を実際に行使するには、事前又は事後の国会承認を必要とすべきである。行使については、内閣総理大臣の主導の下、国家安全保障会議の議を経るべきであり、内閣として閣議決定により意思決定する必要があるが、集団的自衛権は権利であって義務ではないため、政策的判断の結果、行使しないことがあるのは当然である。

「集団的自衛権は権利であって義務ではない」、つまり日本がイヤと思えば集団的自衛権を行使しない、対象国を助けに行かないということなのですが、そんなことを言っている国と集団的自衛権に基づいた相互役務を含む取り決めを結ぶわけないので、実際には「政策的判断」に「支援国の国益」が含まれる場合ばかりではないのでは、と思いました。そこへ件の記事を読んだものですから、ああやっぱり自分の疑問はヘンじゃなかった、と腑に落ちたわけです。

で、ここからが本題。ならばもっと理解を深めるためにまずは篠田英朗氏の著作を読んでみようと、最近の代表的な著作「『国家主権』という思想」を読んでみました。が、これが中身はほとんど論文に近くて、通勤の行き帰りに読むのは本当に骨が折れました。後半はやや挫折。この本で初めて「国際関係学」って学問分野が何をしているのかに触れた(笑)というひとにとっては荷が重かったです。

ただ今回の一件でよく言われる「『立憲主義』への挑戦」とはどういうことなのか、多少なりとも理解できたように思います。また日本国憲法の三大原則のひとつである「国民主権」について、その言葉自体は小学生でも習うことですが、「主権」(sovereignty)とは一体何であるかについては、その後の教育でもあまり深くは触れられてなくてちょっと残念だと思いました。「立憲主義」的に考えれば、国民投票法も非常に危うい存在。究極的に人は信用ならないものである、法律の方がまだマシという考えは、過去の歴史を振り返ればあながち間違っちゃいない歴史的教訓なわけで。勉強になりました。

「オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」

オリバー・ストーンが語る もうひとつのアメリカ史: 3 帝国の緩やかな黄昏

どうしてこの本を読もうと思ったのか、自分でもよくわからない。

ここ 2, 3 年、以前よりもずっとクロースにUSのひとたちと仕事をするようになり、仕事上の価値観が共有されていく一方で、仕事以外の普段の暮らしの差異が気になるようになってきた。出張の帰りの飛行機の窓からやがて着陸する日本の町を眺めるたびに、そのことを実感させられる。「ああ、あそことは違う国に帰ってきた」と。ただ僕はUSで暮らしたことがないので、その実感(憧れというべきか)はおそらく事実とはかけ離れた妄想であることは否めない。まがりなりにもUSマーケットの売り上げで食べさせてもらっている身としては、せめてその妄想を少しでも地に足がついたものになるよう、免罪符のようなものとしてこの本を読んだんだと思う。

この本の内容をやや乱暴に一言でまとめるとすると、アメリカ大統領制には光と影があって、そんなにうまくいっていないこと、そして日本人が「戦後」と称している第2次世界大戦後の世界は、20世紀が始まった100年前、つまり「戦前」とそんなに変わらない、ということになるだろうか。
日本の政治家、ひいては内閣総理大臣が相当の人材難であろうことは、近年の変わり方を見れば一目瞭然なのだけど、世界の政治のトップともいうべきアメリカ大統領だって、たいして恵まれているわけはなさそうである。しかも下手に権限がある分、うまくいかない時の悩みだって相当のものだ。日本でも政治の停滞を解消すべく、首相にアメリカの大統領なみの権限を持たせるべきというような主張があるけども、アメリカの例を考えると、最悪首相がトンデモないやつだったとしても国としてクラッシュしないような仕組みにしておく方が、国の仕組みとしてはよっぽどロバストであると思う。

アルゴ [DVD]

この本を読んだあと、気になってイランのアメリカ大使館人質事件を題材にした映画「アルゴ」を観なおしてみたのだけど、読む前と読んだあとでは全くと言っていいほど印象が変わってしまった。もちろんカナダ大使館に身を寄せた6人の悲劇性には映画のストーリーとしては一定の説得力を持つのだけども、史実としてそれまでイランに対してアメリカがしてきたことを天秤にかけられるのであれば、そこに全く同情の余地はないと思えるのだった。その一方で、映画中盤、CIAの兄ちゃんとその6人が映画クルーを装ってバザールにロケハンに出かけたとき、アメリカの武器で息子を殺されたと主張する店の亭主が叫ぶあの想いは、映画のなかでは全く救われない。まぁよくこういうものを臆面もなく映画にしてしまうよな、と若干あきれる気がする。唯一の救いは、主人公が家に持ち帰った偽映画「ARGO」のストーリーボードが、父が息子を助ける場面が描かれたものだったこと。それが、主人公本人の救われなさ(家族と離れ、彼が命をかけて手がけた救出劇は帰国後に闇に葬られた)と、あのバザールの亭主の救われなさをせめてつなぎ止めるものだった、と勝手に妄想するよりほかない。

オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史」は3巻セットの長丁場だけど、ベトナム戦争が終わる2巻ぐらいまでは面白かったので、そこまではオススメです。

「風立ちぬ」感想

風立ちぬ (ジス・イズ・アニメーション)
不思議な映画だった。どう贔屓目にみても話の流れは複雑で、ある程度の歴史や時代背景が頭に入っていないとそれが意味するところを理解できないし、カタルシスも控えめに表現されていて、ハッピーエンドでもなければ、悲劇が描かれているわけでもない。2時間20分に収められた内容は膨大で、悪く言えばまとまりがないようにも思われる。観ている間ずっと、どうにもならない重石に縛り付けられているようにも感じた。あの時代に生きたひとは大なり小なりそういうものを抱えていたのだろうし、いまこの時代でも実はあまり変わらないといえばそれまでなのだけど。それでも。それでも。日本の田園風景や菜穂子の花嫁姿や空を舞う九試単戦の美しさは微塵も曇ることがないのだと、そういうことを描きたいがための映画だったのだろうか。それってえらい贅沢な話なように思うけど。
個人的には療養所を抜け出して名古屋に出てきた菜穂子を、黒川夫妻がきちんと迎え入れるところがとてもよかった。現実にはああいう流れになるのか少し不思議に思うけど、緊張の続く映画の流れで少しほっとできる瞬間だった。どんな事情であれ、祝い事はちゃんと祝い事として祝いましょうという、ごくごく当たり前のことだけど、堅苦しいと敬遠される慣習というものが存在する価値をよく表現していたと思う。
ものすごい勢いでコンテンツが消費されていく今にあって、「風立ちぬ」は少し意図とは異なる評価のされ方をするように思う。それは僕がこの作品を漫画のままの小品として留めておいて欲しかった理由なのだけども、願わくはゆっくりとこの作品が消化されていって、未来のどこか、小さな映画館でひっそりと見られたらいいなと思う。たぶん10年後に観ても、20年後に観ても、同じように思いを馳せることができることができるはずだから。

「氷菓」「遠まわりする雛」(米澤穂信・角川書店)

氷菓 (角川文庫)遠まわりする雛 (角川文庫)
誰もが思うであろうその不可思議なタイトルが気になっていたものの、京アニ制作というだけで「いつものあれか」とスルーしていた、その作品。小説にはまって結局アニメを見る羽目になり、気が付いたら Blu-ray をお買い上げ。作品への評価については、遅れてきたファンとして語るべきものは何もないのだけど、僕にとってこの作品の評価を決定付けたのは「遠まわりする雛」の表題作に出てくる千反田のこの言葉だった。

「見てください、折木さん。ここがわたしの場所です。どうです、水と土しかありません。人々もだんだん老い疲れてきています。山々は整然と植林されていますが、商品価値としてはどうでしょう?わたしはここを最高に美しいとは思いません。可能性に満ちているとも思いません。でも……折木さんに、紹介したかったんです」(「遠まわりする雛」より)

僕は地元の京都に残っていればするべき仕事があったのだけど、それを早々に捨てて、結局今でも帰らないでいる。それで良かったのかどうなのかなんて、今となっては考えることに意味はないのだけど、それでも千反田と同じぐらいの覚悟があったのなら、また違った自分を作ることができたのかもしれないと、やっぱり考えずにいられなかった。いまの仕事は大変だけど、もちろんそれに見合うだけの世界を僕にくれていると思う。それは京都に留まっていたら成し得なかったことだとも思う。でもこの言葉にふれて、結局は覚悟ひとつのことで、残念ながら20年前の僕はそこに到達できていなかっただけなのだと、自分を恥ずかしく思い、そして彼女を意味もなくうらやましく思った。
加えて、生まれた場所から離れない覚悟は、それが望むと望まざるとに関わらず、この激動の時代にあってずっと重要な意味を持ってくる、大切なことになるという、はっきりとした予感がある。
だから彼女が何を考え、どう行動するのか。もちろんぼとんどは小説には書かれることはないのだろうけど、これからもずっと見ていたいと思う。