「株式会社という病」

株式会社という病 (NTT出版ライブラリーレゾナント)

内田先生のブログで書評が載っていたときから気になっていたのだけど、ようやく読む機会を得た。基本的にはビジネス書の体裁になっているので物語を読むような没入感はなかったし、書かれていることもそれほど独創的といえるものではなかったけれど、内田先生が触れた平川氏のバックグラウンドを知れば、平川氏がこの本を書かねばならなかった理由が理解できるといえよう。

前回の日記で「徳川慶喜の子ども部屋」を取り上げたけれども、それと「株式会社という病」を同時に読んだのは偶然ではあったとはいえ、確かな繋がりを感じずにはいられなかった。つまり旧来、日本の「会社」というのは「お家」そのものであり、社長は主人で社員は奉公人だった。なので、要職が世襲されるのは当然であり、そこに疑問をはさむ余地はなかったのだ。また「会社」は常に社員にオーバーアチーブを要求する。それは雇用契約によって社員という立場にあるという事実からは到底理解できない行為である。さらに要求されるだけならまだしも、社員自らがそのように行動することが美徳とされたのだ。

このことを「お家」からみると、例えば継ぐべき男子が居ない場合はよそから養子を取って家督を継がせた。現代を生きる僕にとってはそんなに簡単に他人を養子に取れるものだろうか、と思ってしまうのだが、これを「会社」の社長と読み替えれば、別に「お家」を赤の他人が後を継いだっていいわけである。

しかしながらそういう「会社」が「株式会社」となった場合に何が起きるか。例えば「お家」が赤の他人のよって売買される商品となり、ある日突然主人を変えられ、血縁者や奉公人が「お家」からまるまる追い出されるとしたら。もちろん「会社」は「お家」から変わらなければいけないのだろう。けれども、もし「お家」も「会社」と同じように変わるべきだといったら、どう思うだろう。それがそこに住まうひとを幸せにするといえるのか。

もちろんこの問いは二者択一ではない。けれども僕はその答えをまだ見つけられずにいる。多くのひとにとっても同じではないかと思う。