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「Cut」9月号「ジブリがアリエッティに託したもの」

Cut (カット) 2010年 09月号 [雑誌]

遅ればせながら「Cut」9月号のアリエッティの特集記事を読んだ。

最初の宮崎駿へのインタビューを読んで「ああ、やっぱり宮さんはうれしかったんだな」と直感的に思った。NHK「ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日」という番組で、初号試写のあとに宮さんが米林監督の手を取って称えたのをみて「これは」と思っていたのけど、それがこの記事を読んで確信に変わった。
「Cut」では昔から何度となく宮崎駿へのインタビュー記事(しかも長文の)が載っているが、決して専門雑誌ではないのにもかかわらずいつも核心に迫る内容で楽しませてくれる。それはひとえにインタビュアーの渋谷陽一のなせる業であると思うのだが、今回も軽快な突っ込みがありつつも決して本質を外さない記事は非常に面白かった。
ただ今回の記事でいつもと違うのは、2万字インタビューと書かれているのだけど、実際のところは要するに宮さんも渋谷さんも待ち望んだ新しいジブリに出会えたことにひたすら賛辞を送っている、それだけが延々と語られているということ。多少の編集が入っていることを差し引いても、こんなに前向きな話ぶりはここしばらくはなかったのではないかと思う。

僕は前作「崖の上のポニョ」についてどう捉えるべきか、いまだに落ち着くところを見つけられずにいる。それは誤解を恐れずに言えば、後ろに見え隠れする宮崎駿の恐ろしい負のエネルギーを感じてしまうからなのだ。本当に僕はあのままの路線でジブリが進んだとしたら、それがどんなに素晴らしい作品であったとしても、とてもついていけないと思っていただろう。
今回「借り暮らしのアリエッティ」という作品の中でも、その片鱗は随所に見て取れた。そもそも二人の主人公が滅び行く小人の種族の少女と重い病を患う少年という設定。しかも舞台となるのは下界からそこだけ取り残されたような古いお屋敷。住んでいるのは老婦人と年老いたお手伝いさんというから救いようがない。いくら花に彩られた庭があり、心地よい風が吹こうとも、死の影が通奏低音のように響いている。
そんな中で繰り広げられる恋愛譚に、宮さんだったらどんな結末を用意していたか。もちろん脚本を書いたのは宮さんだから、話としては同じところに着地したかもしれないのだけど、見せ方や観終わったあとの印象はずいぶん違ったものになっていたのではないかと想像される。

僕が「アリエッティ」を観てうれしかったのは、死の影の通奏低音はそれはそれでありつつも、二人が出会いを通じて変えたのは結局のところ彼ら自身だったというところ。これはぼくはとても今日的だと思った。
彼らにとっても、今日を生きる僕らにとって滅びは既に生活の一部になっている、という言い方をするとちょっと格好良すぎだけど、多くのひとが世紀末的思想ではない明るくない未来についての実際的な予感を持っているのは事実だと思う。それに対してニヒリズム的になるか、世界を革命するか、自分が変わるかみたいなところを突きつけられて状況なのだが、実際に取れる方法論は残念ながら最後のひとつしかないのだと思う。前者二つはまだ滅びが実際の予感として感じられる前の幻影みたいなもので。
アリエッティ」で言うと、たぶんあの屋敷に残るってのがニヒリズムで、屋敷をぶっ壊すというのが世界の革命で、屋敷を出て行くというのが自分が変わることなのだと思う。そしてそれがすれすれの恋愛譚で構成されるところの美しさ。後の米林監督へのインタビューで少女漫画の話が出てきて、なるほどなぁと思ったのだけど、「美しいものを美しく」という切り取り方でストンと落としている。笑いがあったりスペクタクルやカタルシスがあるわけではないのだけど、確かに心に響くものがありました。

米林監督って同い年なんですよね。新海さんも、柳沼さんも、やっぱりなんか同世代ってものすごく波長が合う感じがして、それは勝手な思い込みかもしれないけど、とても好きです。