「あれから15年」

その頃、僕は大学に通うために横浜で一人暮らしをしていました。その日の朝は、友人からの立て続けの電話で起こされました。とにかくテレビをつけて見ろいうので、NHKのニュースを見てみると、飛び込んできたのは空撮で火事と思われる幾筋もの煙が立ち上る神戸の街でした。その友人はまさに神戸が実家だったので、とにかく行けるところまで行ってみると言い残して電話を切りました。
僕の実家は京都だったので、ひとまずは連絡をつけようと電話をかけましたが、まったく電話はつながりません。ニュースでも電話は大変混み合っているので、不要な電話は避けるようにとのことを言っていました。しかし、そのとき電話をかけていた当人たちにとっては、おそらく不要な電話などひとつもなかったのだと思います。誰もが家族が、友人が、同僚が無事であるかどうかを知りたかっただけなのです。
震源地は神戸付近であることは報道されていたのと、周辺の大阪や京都の様子をみる限りでは壊滅的な被害を受けているという様子ではなさそうでした。親のお金で学生の身分となっている僕は、ひとまずは本業を全うすべくそのあと授業に向かいました。夜には家にも連絡が取れ、その日は終わりました。
結果的には、幸いにして神戸付近に実家のある僕の友人および身内の方に亡くなった方はいませんでした。家が壊れてしまった方はいましたが、とにかくそれだけが不幸中の幸いでした。ただ僕自身は、おそらく現地以外にいたその他大勢のひとがそうであったように、その後も普通の生活が続きました。
僕が現地に赴いたのは3月下旬のことでした。春休みでちょうど京都の実家に帰省していたときに、父親の仕事の取引先の方が震災で亡くなり、その法事(お葬式ではないと思ったが...)で新開地まで行く用事がありました。一緒に来い言われ荷物持ちとして出かけました。当時はJRが住吉まで開通していて、そこからバスに乗るというルートだったように思います。京都駅からJRに乗ると、震災から2ヶ月立つとはいえ、列車に乗っている方のほとんどが現地へ向かう方でした。高槻を過ぎ、屋根にブルーシートがかかった家がちらほらと見え始めました。そのときの列車の中の雰囲気は今でも昨日のように思い出せます。ほぼ満員の乗客の誰もが、じっと押し黙り、あるいはひそひそと会話をし、緊張感と疲れが入り混じったようなそんな重苦しい空気が支配していました。僕はこのとき、過去2ヶ月にわたってテレビや新聞から伝えられたものに決定的に欠けているものを受け取った気がしました。
住吉で電車を降り、さらに三宮方面に向かうバスに乗りました。道路は砂埃が舞い、一見なんら変わらないビルの横で完全に瓦礫になり、さらにそのままになってしまっている場所がいくつも見えました。取引先の方が亡くなった現場は瓦礫は片付けられていましたが、それでも「廃墟」というしかし言いようのない状態でした。その方は火事で亡くなられたのですが、ちょうど道路を隔てて向かいには、普通のおうちが外観に大した傷もなく建っていました。道路を隔ててあっちとこっちでまるで景色が違う。そんな場所が本当にいくつかあったのです。その方がなぜ亡くならなければいけなかったのか、父親が言った言葉に同意せざるを得ませんでした。
法事の間、荷物持ちだった私は法事に出ず、湊川公園の付近を少し見て回りました。ボランティアも何もしない私がここにいる資格はないように思いましたが、たまたま来る機会を得たのも神様のお計らいだろうと思い、恥ずかしながら、本当に恥ずかしいと思いながら、小一時間ほど歩きました。
そのとき僕が得た知見などほんとに瑣末なものといえますが、とにかく震災のときに自宅がつぶれないかどうかは生死や被災後の生活に決定的な影響を持つのは明らかでした。僕らは小さい頃から学校で震災時の火事の危険性について散々聞かされてきたので、それに対する怖さというのはありましたが、本当にすっかり建物が壊れてしまう様を見てしまうと、横浜に戻ってからしばらくは「ここで地震がきたら絶対に生きて戻れないな」という場所が街のいたるところにあることを思い知りました。
僕が阪神淡路大震災について書けることはこれぐらいです。おそらく多くのかたが現地に行かれ、復旧に尽くされたことだと思います。ただあの現場の空気を日本中のひとが共有できたのなら、おそらくもう少し防災に対する感覚が変わるのかもしれないと思い、ただそのことだけを書きたくて駄文を書き散らしました。大変失礼しました。改めて震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りいたします。